気がつくと中年男になっていた。しかも、失業中の無職の中年男である。字面で書くとなんとかっこ悪いことか。僕は自分で言うのもなんだが、ルックスには少々自信を持っていた。いつも、やたらと若く見られた。だから、自分がうらぶれた中年男になるということを想像することができなかった。だが、最近の僕は歳相応に見えるらしい。衝撃である。この僕が、れっきとした中年男になってしまったのだ。
まだ20世紀のころ、つまりまだ若かりしころ、よく21世紀に思いを馳せた。計算上、そのころ僕は40になっている。40歳の自分というものを、そのころの僕には想像ができなかった。それよりむしろ、生きて21世紀というものを迎えられるのだろうか、などということを考えていた。しかしもはや2006年である。驚くべきことだ。そして僕は46歳である。46歳。衝撃である。衝撃で腰が抜けた。しかも無職。かっこわりー。一応フリーのモバイル・コンテンツ・プロデューサーということにはなっているが、現実にはただの失業中の男なのだ。日々就職活動をしては年齢で落とされ、そのたびに自分が中年男になったことを否が応でも実感せざるを得ないのだった。
中年とはなにか、などということを考えてみる。僕が歳を取ったなあと感じ始めたのは、まずいろんなことに対する意欲の低下、バイタリティの欠如、怠惰、そして一番顕著なのが体力の低下である。これはもちろん、運動不足という明確な理由があって、結局は怠惰、無気力というところに端を発するのだ。それとともに、あれほど若さを誇った僕も老いていく。いまや持病の鬱病のせいで性欲もほとんどない。気がつくと、桜日和の午後に何をしたらよいのかわからずに呆然としている自分がいたりする。
この、中年男になった自分というものをポジティブに考えられないものかと一考してみる。つまり、今の自分はかっこいいのだ、と仮定してみる。はて、一体どこがかっこいいのか。強いて言えば、この歳になって自由である。無頼である。しかし、書いていてもなんかただのこじつけだなあと思うのだった。老いが現れたルックスの方はどうなのだ。幸いにして、いまだ中年太りというようなものには至っていない。少々ウエストはきつくなったものの、いまだに少年体型はなんとか保っている。これをセクシーと捕らえることはできないか。できないだろうなあ。まあしかし、世の中にはおじさんの方が好き、という奇特な好みを持った女性も存在するので、まだまだモテる可能性というのもあるのではなかろうか。それにこういった破滅型の人間に惹かれてしまうというマゾ的女性というのも存在する。しかしなあ、肝心の自分に性欲がないのでは、こういったこともあまり慰めにはならない。むしろ、同性にいかに尊敬される人物になるかの方が肝要なような気がする。ああ、そりゃ無理だよ。今の僕に尊敬に値する部分など鼻糞ほども見つからない。
さて、かくなる上は、かっこいい失業中の無職の中年男になるしかない。一体どうしたらそんなものになれるのか。こういう考え方はどうだ。中年のくせに無職で失業していること自体がかっこいいという概念は。ないな、そんなものは。まあよい。なければ自分が最初のかっこいい失業中の無職の中年男になればよいのだ。なんだ、そういうことか。ははは。意外と簡単ではないか。まずは、自分がかっこいいのだという概念を持つことから始めるのだ。オレはかっこいい。自由だ。フリーだ。天衣無縫だ。スタイルもまずまず悪くない。歳のわりにはまだまだ一般人よりは若く見える。なんだ、なんら問題はないではないか。中年男のどこが悪いのだ。
いやしかし、プラス思考というのも疲れる。
written on 29th, mar, 2006