one of those days

「特別な一日」

...

「今日」という日は繰り返し毎日訪れるものだ。したがって、いかにいろんなことが起ころうと大概の場合はまた次の「今日」がやってくるものであり、その意味では「特別な今日」などというものは滅多にない。逆に言えば、寸分違わず同じ日などというものはないわけで、いかに単調な毎日を繰り返しているようであっても、ある意味波乱万丈な毎日を送っているのと大差はない。それが日常というものだ。違いがあるとすれば、退屈または鬱屈しているかそうでないかぐらいだ。それは言ってしまえば気分の問題である。いずれにしても、レイモンド・チャンドラーが言うように、「今日は昨日ではない」。

「特別な今日」というのは滅多にない。だが、たまにそれは訪れる。気分の問題ではなくて。

例えば僕の場合の今日はどうだろう。今日は眠かった。そして忙しかった。メールの対応と提案書と見積書の作成と公園のベンチでの一時間あまりの昼寝で一日がほぼ終わった。定時ちょっと過ぎに会社を出て、いつものように一駅戻って始発の電車に乗り、座って帰る。ここまではいつもとさして代わり映えしない。いつものように本を読み始め、途中から寝ようとする。ところが、渋谷を過ぎたあたりで車内のアナウンスがあった。新大久保で人身事故があった関係で安全を点検しますというものだった。新宿に到着するとなかなか発車せず、車内は次第に猛烈に混んでくる。どこかの誰かが通勤時間帯に電車に飛び込んだせいで、今日の僕の帰りの時間は少々時間がかかるというわけだ。しかし、しっかり席に座っている以上、多少いつもより時間が掛かろうがさしたる違いはない。ときおりうとうとと寝てしまえば時間は過ぎる。

快速だったのが各停に変更され、おまけに猛烈に混んでいるもののの、なんとか30分遅れで地元の駅に着く。一斉にホームに出ようとする人たちと一緒に、僕もホームに降りる。そのときだ。「痴漢です」と叫ぶ女の声が聞こえる。もう一度聞こえたので立ち止まって声のした方を振り向く。すると、僕が降りたのとはひとつ隣の車両のドアの前で、男が一人、乗客に取り押さえられている。二人の乗客に両腕を捕らえられて俯いている男。あれが痴漢なのだろう。三十歳前後だろうか。男の顔は一瞬しか見えないが、もみ合って乱れたのであろう髪と憔悴あるいは混乱している横顔は黒澤明の「天国と地獄」で犯人役をやった山崎努を思い起こさせる。男を抑えている乗客の体格のいい方が、顔を上げて周りに「どなたか目撃された方はいませんか」と繰り返し声をかけている。三十代前半のサラリーマン、といったところか。ワイシャツにネクタイ。捕り物の現場に居合わせてまさにその捕り物をしているにも関わらず、それほど興奮しているようには見えない。むしろ冷静に見える。体格はいいが、人を威嚇するタイプではない。まさに正義の味方にふさわしい、理想的なキャラクターとも言える。僕とは正反対だ。その取り押さえている現場のすぐ隣に、背の高い、髪の長い女性がぼうっと立っている。あれが恐らく被害者で、先ほど叫んでいた女だろう。二十五歳前後のOLといったところ。多少不安げには見えるが、取り乱している気配はない。ちょっとやせぎすで、見た目もそれほどぱっとしない。あまりヒロインにはふさわしくない、ドラマティックな話にもふさわしくない、どうでもいいタイプの女性。

僕はちょっと足を止めてこういった光景をしばし眺めていた。この後の展開はどうなるのだろうという好奇心が胸にうずまくが、帰宅にいつもより30分も余計にかかってしまったし、晩飯もまだなので階段を降りる。他の乗客も似たようなものだ。僕はそのまま駅の改札を出て、中華料理を食べに行く。つまり、僕もその他大勢の人たちも日常に帰っていく。違うのは当事者たちだ。痴漢、被害者、取り押さえた人。彼らはこれから長く執拗な事情聴取が待っている。彼らには長い一日になるだろう。しかし、それもいずれは終わり、彼らもまた日常へと帰っていく。被害者ですら。唯一違うのは痴漢を行った犯人だ。彼は留置場に拘束されることだろう。彼だけは日常へと戻ることが許されない。彼の今日という日は終わることがない。つまり、彼にとって、今日は特別な一日となったのだ。

痴漢というのは目撃者がなかなかいなくて親告罪的な意味合いが強い。従って冤罪の多い犯罪である。実際、冤罪で酷い目に遭った人が何人もいるし、示談で金をせしめることを頻繁に行っている怪しげな女も存在する。今日の犯人が本当の痴漢なのかは知る由がない。しかし、本当のところは案外どうでもよくて、真相の如何に関わらず彼には特別な一日となったのだ。そして、あのぱっとしない、見栄えのしない女が彼のストーリーのヒロインになってしまったというわけである。

同様に、新大久保のホームから飛び降りたどこかの誰かにとっても、今日は特別な今日になった。なにしろ彼にはもう新たな今日という日は訪れない。小学生を8人殺して今日の午前中に死刑を執行された宅間守にとっても同様である。彼らはもう日常に戻ることもないし、繰り返し「今日」という日が訪れることもない。

written on 15th, sep, 2004

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