指図。さしず。なんと嫌な言葉なんだろう。ごくごく少数の人を除いて、大概の人は指図されるのが嫌いだ。そのごくごく少数の人も、ある特定の状況下に於いて、特定の限られた人間の指図のみを喜んで受けるのであって(例えばマゾヒスト)、彼らとてその特定の人間以外からの指図は好まない。ほとんどの人は指図する方を好むが、例えば僕のように、指図されるのもするのも好まない、という人間もいる。もちろん、僕の場合、指図される方がより嫌いであり、それも極端に嫌いである。
いずれにしても、単に「指示」というのと違って、「指図」という言葉には実に嫌な響きがある。そこにはいくばくかの悪意すら潜んでいるといっていい。
僕が大概の人以上に極端に指図されるのを嫌いになったのは、両親が二人とも教師という、人に指図しやすい(むしろそれが仕事であったりする)職業に就いていたからだ。おけげで両親はなにかと僕に指図することを好み、ことあるごとに説教をし、僕は人に指図されることが大嫌いになった。
悲しいことに、世の中というか社会というものは、この、指図する人間と指図される人間という関係性の中で成り立っている。前述の親子という関係はその典型的なものである。
……というところまで、都内の私鉄沿線の駅前のドトールで書いた。だがちょっと待て、「指図」という言葉を英訳してみると、orders,instructionsそしてdirections。ディレクション。ここで僕の本業(としてきたもの)を思い出して欲しい。ディレクター。つまり、僕は「指図する人」としてずっと生きてきたのだ。なんと皮肉なことなんだろう。なんだかんだ言って、結局僕も指図することが好きなのに違いない。両親と同じ轍を歩んできたというわけだ。こういうのを「業」というのだろうか。
指図する者とされる者という構図から逃れるには、どこかの山奥、そう小野田さんのようにフィリピン辺りのジャングルでもいい、まったくの天涯孤独という境地に赴かねばならない。しかし恐らく、本当に一人の生活を始めたとしても、時を経るに連れて人は己の中に戒律を増やしていくだろう。つまり、自己が指図する者であり、される者である。己の中にその構図を作ってしまうというわけだ。考えてみれば小野田さんも、天皇、もしくは皇国日本というものに常に指図されていたのだ。
自由ってなんだろうね、なんて思うのだった。
written on 24th, jan, 2005