perfect couple

「完璧なカップル」

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まだ用賀に住んでいたころだから、いつごろだろうか、たぶん10年ぐらい前だと思うのだけれど、僕は電車の中で完璧なカップルを見た。田園都市線の上り、渋谷まで向かう電車の席の端っこにそのカップルは並んで座っていた。男が一番端の席、女がその隣。彼らは僕よりも手前から乗り込んでいて、つまり僕が電車に乗り込んだときは既に席に座っていた。彼らは一目見て誰が見ても完璧なカップルだった。少なくとも見た目は。少女漫画やトレンディ・ドラマに出てきそうな美男美女の組み合わせだった。二人とも背が高く、スタイルがよく、容姿は素晴らしく整っていて、文句の付けようがなかった。欠点を探そうにも、どこにも見つからないようなカップルだった。どこからどの角度から見ても。彼らは否応なく目立った。そこだけが別の空間であるように、ある意味彼らは浮いていた。あまりにも完璧であるが故に。彼らの完璧さは、その二人揃ったときのバランス・組み合わせの見事さ、その二人の醸し出す雰囲気の絶妙さ加減にあり、まるでホログラムみたいに飛び抜けて見えるのだった。彼らは二人ともモデルか俳優のどちらかしか職業は考えられなかった。ミュージシャンに見られるような、自意識過剰さは見られないので、アーティストでないことは分かった。彼らの居場所は雑誌かテレビかスクリーンの上にしかないように見えた。芸能界以外の就職先は考えられなかった。二人とも30歳を越しているだろうことは見て取れて、だからこそ彼らは完璧に見えた。別に特別に派手な格好をしているわけではないが、例えば男の格好はその辺のおっさんがしたらまるでチンドン屋みたいに見えるであろうことは察せられた。しかし、二人は完璧に服を着こなしていて、異論を挟む余地はなく、まるで彼らのためにオーダーメイドで作られたようであり、決して服に着られているわけではなく、まるで彼らの肉体の一部のようだった。彼らの服装はタキシードやドレスというようなフォーマルなものを完璧に着こなしているわけではなく、普通の人ならちょっと派手かな、と一瞬躊躇するような服を実に自然に着こなしていて、例えば男の方はジャケットの中のノーネクタイのシャツの第一ボタンを外していて、普通ならそれが隙であるように見える筈なのだが、逆にそれが故に完璧な格好に見えた。男は一見無造作に見える長めのヘアースタイルで、女の方はストレートのロングヘアだった。男はその長い足を組んでいた。そして、憂鬱そうな顔をしていた。女の方もどこか居心地の悪そうな顔をしていた。彼らはそのルックスが完璧な故に頭が悪そうに見える、ということもなかった。特別に馬鹿にも知的にも見えなかった。ただ完璧なだけだった。二人がどこか憂鬱で居心地の悪そうに見えるのは不思議でもなかった。彼らは電車なんかに乗るべきじゃないように見えた。BMWのクーペのカブリオレかなんかに乗って、憂鬱そうに青山通りを走るべきだったのだ。彼らの憂鬱は、その完璧さから来ているように見えた。彼らはどうやっても、何をやってもサマになってしまうのである。何をやっても決まってしまう。ちょっと首を傾げたり、小声でパートナーに話しかけたり、髪の毛を掻き上げたり、何をやってもなんかのCMみたいになってしまうのだ。彼らがもし俳優だったら、たぶんいつも同じ役しか回ってこないだろうと思われた。主役ではない、二枚目の役である。主役になるには、彼らは完璧過ぎるのだ。完璧であるが故に、飛び抜けた役者が持つ、ある種の狂気のようなものがない。常に主役を打つような役者の持つ、どこか肩の力が抜けたようなところと、凄まじい緊迫感のような、まるで違うものを二つ同時に合わせ持つということがない。要するに彼らはその完璧さ故に凡庸なのだ。ある意味ステレオタイプである、とも言える。だからそのルックスは意外と記憶に残らない。ただ飛び抜けた美男美女のカップルであるという印象しか残らない。彼らは否が応でも発してしまう一種の華やかなオーラとともに、僕にはある種の惨めさを発しているように見えた。どんな格好をしても派手で目立ってしまうというのは、たぶん惨めなことなのだ、と僕は思った。彼らは人に決め付けられることを運命付けられているようにも見えた。だから彼らが憂鬱そうに見えるのももっともなことなのだ。

それだけの話なんだけど。

written on 3rd, aug, 2009

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