十六年間通い続けた店だ。看板には「ピロエット」と書いてあるが、Pirouetteという綴りは仏文出身者としては「ピルエット」と読むべきである。バレエとかでつま先を軸に素早く回転すること。これはバレエをやっていたKからも聞いた。
漆喰の壁に木の床、ちょっと固めの椅子に木のテーブル。コーヒーがおいしくて、日当たりのいい場所も、日の当たらない間接照明の場所もある。ここはある意味、僕の理想に近い喫茶店だ。これで静かで、それでいて控え目な音量で邪魔にならない洗練された音楽がかかっていれば完璧だ。ここでは小説を書き始めたころ原稿を書いたりもしたし、インターネットで知り合った人とお茶を飲んだりした。実際、モダンで巨大な駅ビルが建つまでは、自分の部屋以外ではこの店しか用賀で僕の居場所はないような気がしていた。ああもうひとつ、この店の先に「OLD BOY」という店もあった。ちょっとオールド・アメリカンっぽい、使い古された木の内装で音楽の趣味はむしろこっちの方がよかった。昔のロック喫茶の名残を残す店だったが、コーヒーの味がちょっと落ちるのと、「スパゲッティ屋」という看板に書き換えられてから足が遠のいた。そんなわけで、用賀に住んでいた十六年間、僕が欠かさず通い続けたのはピルエットならぬ「ピロエット」だった。この店は元々マスターと、恐らく北欧系と思われる(カナダあたりかもしれない)外国人である奥さんがやっていたのだが、途中から雇われマスターに代わり、彼は十年近く続いた。しかし、これは日記の方にも書いたことがあるが、何故か僕に対していつも愛想の悪かった彼は、店の金を使い込んでクビになった。なので、僕が去年引っ越すあたりから、またマスターが店に出るようになっていた。
体調を理由に一週間延ばした心療内科の帰り、久々にこの店のコーヒーが飲みたくなった。数ヶ月ぶりである。入ると、客はほとんどいなかった。奥のテーブルに座ると、ちょっとした違和感を覚えた。マスターの代わりに、おばさんになりかけたおねえちゃん、といった風情の女性が注文を取りにきた。ああ、新しい人を雇ったのだな、と思いながらいつものコーヒーを頼む。どうやら席から見えないカウンターにこの女性の友人がいるらしく、馬鹿でかい声で話している。このおばさんになりかけの女性の声は、ちょうど人間がもっとも耳につく2KHZ周辺の声で、やたらとうるさい。それも異様にテンションが高く、興奮した人間にありがちな第三者が落ち着かないリズムでまくしたてるようにしゃべる。うるさくてしょうがない。おまけに、ウエストコーストのダサいポップロックがかかっている。やれやれ。ようやくコーヒーが届く。一口飲んで、げっと思った。まずい。この店でたまに今日はいつもよりおいしくないな、という日は稀にあったことは確かだが、ここまでまずいと思ったことはない。確かに、このところ潰瘍を患ってからコーヒーがおいしく感じられないのも事実だが、この二三日はようやくコーヒーがおいしくなってきたところだ。明らかに味が落ちている。例の女は相変わらず耳につく声でしゃべりまくっている。開いた文庫本の文章もなかなか頭に入らない。とどめは、オヤジの五人組の客が入ってきて、競馬新聞を開いて馬鹿でかい声で競馬の予想をがなり始めた。僕はたまらず店を出た。コーヒーは半分残した。
駅まで歩きながら、なんか余所者になったような気がした。確かに、あの女は僕という客を知らないから彼女にとっては一見の客に見えるだろう。しかし、僕はこの街に十六年住んで、あの店に十六年通ったのだ。アパートから十五分かけて歩いて。あそこのコーヒーを愛していた。
乗り換えのために渋谷で降りた。渋谷の東口は相変わらずクレープの甘い香りがする。この街も長年僕がいろんな意味で根城にしていた街だ。何故かここでも僕は違和感を覚える。先日読んだ、田口ランディの「モザイク」に描かれた渋谷を思い出す。この街は日に日に薄汚く淀んでいくように思える。まるでゴミ溜めのようだ。ここはもはや最先端の街ではなく、腐敗しかかった傷口のようだ。歩道はゴミだらけだし、歩いている人間も荒んだガキばかりに思える。皆刺激に飢えて欲望を顔に貼り付けているように見える。僕が大人になっただけではあるまい。この街は確かに腐りかけている。大友克洋の「アキラ」に描かれる、ネオトーキョーに近づいているような。その意味では近未来的とも言えるし、ある種の先端と言えなくもない。また僕はなにかを失ったような気がした。
そろそろカミングアウトしてもいいだろう。僕が引っ越したのは埼玉県だ。悪名高き埼京線沿線の、熱狂的サポーターを持つサッカーチームのある街だ。その中でも、比較的上品で閑静な住宅街だ。たぶん。なにしろ、埼玉という土地を僕はまだよく知らない。その悪名高き埼京線の吊革に捕まりながら、僕はちょっとほっとした。確かにこの電車はなにかにつけてやたら停まったりもするし、変なオヤジもいるが、田園都市線のように空き缶にシンナーを入れてラリったりするようなガキどもはいない。駅を降りると、僕の住むこの街がいかに清潔で、閑静な街であるかが分かる。僕はまたちょっとほっとする。
でもね、やっぱり僕はなにかを失ったのだ。確かに時間は過ぎているのだ。今はただそれを外から眺めているに過ぎない。
written on 17th, may, 2003