ああ、それは笑っちゃうぐらい単純なことだった。
米映画のセリフにもしばしば登場するアメリカの超有名ドキュメンタリー・チャンネル、ディスカバリー・チャンネルを見ていた。このチャンネルは見る番組が無いときに重宝している。なにしろ、事実ほど面白いものはないのだから。サッカー代表が負けてしまった時点で僕の中では八割五分方オリンピックは終わってしまっているので、中継番組を見るのも熱が入らない。そんなときにたまたまチャンネルを換えてみると、人間の罪を科学的に解明する、と云うテーマである。こいつは興味津々だ。小説書く参考にもなりそうだし。
先ずは犯罪者は遺伝によって生ずるか、と云うテーマ。養子にもらわれて普通の両親に愛情を持って育てられたにも関わらず、人を殺しても平然として何の呵責も感じない犯罪者。元を辿れば、彼の実の家系は反社会的資質の歴史だった。遺伝は環境をも凌駕してしまう。ただし、彼の場合は母親の妊娠中の過度のアルコール摂取による脳の損傷と云う原因もその引き金になっていた。へえと見ていると、次に出てきたのは元過食症の人たちだ。彼らはストレスから自分を解放するためにひたすら食べてしまうのだが、それはセロトニンと云う脳内物質に起因している。このストレスを緩和する物質が女性はそもそも足りないらしい。そう云えば、前に居た会社で僕の後釜にディレクターになった女の子は、ストレスで倍ぐらい太ってしまったことを思い出す。この辺から何か僕の中に引っ掛かるものがある。そう、考えてみると僕も夜帰宅してからは食べてばかりいるのだ。夜はとにかく四六時中間食ばかりしている。たまたま僕の場合は胃腸が弱いので太らないのが幸いしているだけだ。なにやら次第に自分の姿が重なってくる。
次に登場したのは、鬱病の女性だ。いったん自分の姿が重なり始めると加速度を増してくる。現代人に鬱病が蔓延しているのは、元々狩猟採取的存在であった人間がほとんど椅子に座って動かなくなってしまったことに起因していて、従って運動することによって解消、治療出来る、と云うものだった。次第に重なる自分の姿は、数秒間挿入された鬱病患者のいわゆる再現映像で決定的になった。カウチに無気力に寝転がるヤッピー風の男。それはまさに自分の姿そのものではないか。画面の中に自分が映っている。これは一種の啓示である。
不思議なもので、そうなると全てが自分と重なってしまう。最後のサンプル、ドラッグ中毒者だった男。ヤングエグゼキュテイブとして我が世の春を謳歌していた頃、自分はビルから落ちても幸運で助かるはずと思うほど自信過剰だったと語る男。あらゆるドラッグに手を出し、クラックに手を出してからは欲望を抑え切れず全てを失って転落していった話。これも科学的には快楽を記憶するドーパミンの作用によるという。犯罪者を作り出してしまうDNA。ストレスとセロトニン。欲望とドーパミン。ほとんどのことが科学的に分析解明できてしまうと云うことがこの番組のテーマでもあり、不思議なことでもある。しかし、問題はそこではないのだ。
要するに僕は鬱病なのだ。その単純極まりないことがようやくわかった。出てくる話は全てどこか自分に通じるものがある。自己の欲望を抑えられない、無気力・怠惰になって何も出来ない、ストレスから一時的に解放される行動に走る...セロトニン、ドーパミン、無味乾燥などこかで聞いた名前の脳内物質の作用。本当に何も出来なかったり、自殺してしまうほどの重度な鬱病ではもちろん無い。人と会っているときは普通だし。しかし、遡って考えれば十年前に会社を辞めた当時の行動を振り返ってみると、既にその状態だったことが分かる。その後のいまに至るまで、ほとんど半分ぐらいの時間、僕はほぼ慢性的な鬱病だったのだ。それはかの犯罪者のようにもしかしたら遺伝的なものかも知れない。父が手術後軽い鬱病と診断されて薬をもらっていたということもある。しかし、肝心なのは僕がそれに気づいたと云うことだ。
ああ、ホントにお笑い種だ。このページに二年あまり綴られているのは鬱病日記のようなものだ。ある意味病人だったなんて。だが、僕はそれに気づいて肩の荷が降りた気がした。思うに、僕は必要以上に重いものとして自分や現実を背負い込んでいたのだ。その妙な重さの原因が分かっただけでも大違いだ。全部とまではいかないが、例えば16トンが8トンぐらいにはなった気分だ。
先日買った14インチのブラウン管にほんの束の間映った自分の姿を見て、僕はようやく少しだけ本来のサイズに近くなった現実と向き合えるようになった。もちろん、それで現実そのものが変わるわけでは無いが。