たったいまTBSの山田太一のドラマ(「春の惑星」)を見て思ったのだが、善人ばかりの話というのはやはり心が和むなあ。
僕のように長く生きていると(笑)、裏切られたり、嫌な目に遭ったり、いろいろと酷い目にも遭ったりして、結局最後にアテになるのは自分だけだなどという心境になって現在のような状況になっていたりするのだが、本当を言えば僕は人を信じたくてしょうがないのだ。冷静かつ単純に判断すれば、単に自分に協調性が無いだけなのかもしれないが、自分ではそんなつもりは毛頭無い。如何せん、見せかけの華やかさとオレがオレがという世界に長くいたものだから、ちとふて腐れているだけなのかもしれない。もともと徒党を組んでつるんだりするのが嫌いなタチなので、ともすれば誤解されることもあるのだが、基本的には人を悪い方に考えるのは好きじゃない。
そんなわけで、ヒューマンで善人ばかり登場する山田太一のドラマや映画などを見るとほっとしてしまうのだ。世の中や人間も捨てたものじゃないと。以前見た向田邦子原作の「あ・うん」という映画もそうだった。最近読んでないが、あだち充の一連の漫画も同様で、たんにのほほんとしているだけでなく、どこかほっとする安心感があるのだ。違う言い方をすれば救いがある。
以前CXで草薙がやっていた「いいひと」というドラマがあったが、あれはちょっと別。善人という建前で迷わずに自分の価値観を押し付ける人間は傍迷惑なだけだ。僕はあのドラマを見てイライラしてしまった。
悪いことをしてしまう善人が登場する映画(ドラマ)と、善人として描かれている悪人が主人公では、当然のことながら味が違うものだ。基本的には勧善懲悪として描かれている「必殺」シリーズなどは、善人などはほんの添え物で、最終的には「許せねえ」みたいなことで悪人を殺してしまうことが「善」もしくは「正義」として描かれている。正義というのはある種の立場であるから、見方によっては簡単にひっくり返ってしまったりもするのだが、悪人とは言え人を殺すという行為は(死刑を含む)正義かも知れないが悪である、と思う。ただ、悲しいかな殺してしまわなければならないほどの悪人が結構現実に存在していることも確かだ。だから僕は別に死刑廃止論を唱えるつもりもない。つまらない奴に自分が殺されちゃかなわんからね。
一方では殺して当然という悪党をぶった斬る(撃ち殺すでもいいけど)ことにカタルシスを覚えるのも確かで、所詮僕らは陣取り合戦で勝った方が相手の首を切って勝どきを挙げていた人間の末裔なのである。要は熱帯魚が弱ったものを食べてしまうのと根っこは同じようなものである。エルロイやレナードのように悪人しか登場しない小説を読んで、なぜか憎めなかったりカタルシスを覚えたりするのも、山田太一やあだち充の描く世界にほっとするのも、結局は同じ僕という人間であり、人間というのはそういうものなのだ(と思う)。本質的には唯一モラルで動くという点で、人間という動物は(モラルとしての)善足り得る唯一の存在であると思うが、動物であるが故に悪(原罪でもいいが)からも逃れ得ない。
ちょっと真面目に考えすぎて肩が凝ってきた。いまさら僕なんぞが大見得切って言うほどのことでもないが、要は「性善説」も「性悪説」も人間のそれぞれの側面を表しているに過ぎない。言いかえれば希望と絶望のようなもので、人間の中に常に同居しているものである。でも、世界中とまでは言わないが、自分の周りにいる人間全てが善人ばかりだったらほんとに安心なんだがなあ、などと時折大真面目で考えてしまうのだ。
ところで余談だが、必殺シリーズと言えば、ケロケロに酷い目にあってしまう善、つまり弱さの象徴として描かれる善と、強さの象徴として描かれる悪という相関関係は、僕が卒論で取り上げたマルキ・ド・サドの描く世界と面白いように似ている。