silence

「静寂」

...

数年前の話だ。それは秋の素晴らしく晴れた日で、日中はぽかぽかと暖かく、ちょうど先週のような陽気だった。僕は田舎に帰っていた。ふとした弾みで(それはホントにふとした弾みだったのでなんなのか思い出せないほどだ)、子供のころに学校の遠足で出かけた町外れの人造湖を思い出した。穏やかに日の射す午後だった。僕はふたりで留守番していた父を、ドライブに誘った。無性にその人造湖を見に行きたくなったのだ。いかにも気が乗らない素振りの父を無理矢理車に押し込んで、父の車で出かけた。父はめっきり老け込んだ近頃になってあまり家を出なくなっていたので、タマにはドライブも悪くない、と僕は思ったのだった。

家を出て十分もしないうちに、山沿いの地区に入る。山といっても、長野辺りの山に比べれば丘のようなもので高が知れているのだが。田んぼが埋め立てられて、すっかり新興住宅地のようになった町の中心部と違って、山沿いの地区は昔とちっとも変わらない風情だった。どれも子供のころに見かけたような気がする家ばかりが立ち並ぶ。そうした家々もまばらになって、ついには途切れた先の山の中腹にその人造湖はぽつんとある。そこはホントに町の外れで、山の傾斜沿いの果樹園も途切れた、もうこの先は何もない、というところにある。実際のところはまだその先の山の奥深くまで細い未舗装の道が続いてはいるのだが、事実上そこは行き止まりの場所だった。

その人造湖がなんのために造られたのか、恐らくは貯水池かなにかだろうが、今となっては皆そのことすらも忘れてしまったかのように、ただ昔からそこにあったのだ、という風にひっそりと水をたたえていた。アスファルトで舗装された広い駐車場には他に一台の車もなく、片隅に立っている公衆便所も、その使用頻度を考えると無用の長物に思えてしまうほどひと気がなかった。僕らは日の照りつけるだだっ広い駐車場に車を停めて、湖の淵に向かった。辺りを囲む山々はそろそろ紅葉を始めようかと考えている頃合だった。父はなかなか湖に近寄ろうとしなかった。行きがけに車の中で彼に聞いた話によると、かつてはそこは高校のカヌー部の練習場になっていたそうだ。ところが、ある日ひとりの若い女が身を投げて入水自殺した。それ以来、そこが練習場として使われなくなった、ということだった。父は気味悪がって湖のそばに行くことを嫌がった。僕は少し小高くなった湖の淵に立って、そこから見るとちょうど火山の火口湖の小型版のように見える人造湖を見下ろした。

辺りはまったく静かだった。ただ赤とんぼだけが飛び交っていた。実際には虫の声や、甲高く鳴く鳥の声や、風にざわめく樹々の葉の擦れる音や、そんなものが耳を澄ますと満ちていたはずだが、僕にはまったくの静寂に思えた。これほど人の気配がしない場所には初めて来たような気がした。そこは確かに人が造ったものであるにも関わらず。本来の目的を失って、存在意義を忘れ去られたような湖面を僕は見つめた。そこに浮かんでいたという若い女のことを思った。それは鮮やかに目に浮かぶ。白いワンピースを着て、うつぶせに浮かんでいる若い女。長い髪が頭の周りに広がって、円を描く。波紋が音もなく、広がった髪のまわりからゆっくりと淵に向かって進んで行く。その光景はまったくの静寂というものを表しているかのようだ。僕はその自殺の話が実際にあった話なのかどうかも知らないが、それは確かにそこにあったのだ、と思った。それは仰向けではなくうつぶせに、そして白い服を着た手足を伸ばした身体は少し沈みがちに、頭だけが湖面に近く髪の黒い花を咲かせている。僕はなにも聞こえないような気がするほどのどかで暖かな秋の陽射しの中で、辺りを飛び交う赤とんぼの中にたたずみながら、その頭の中に浮かぶ光景を不思議なほど穏やかな気持ちで見ていた。少しも怖くはなかった。ただ静かだった。本当の静けさ。

そろそろ帰ろう、と父が言った。父はとにかく怖いと言った。引きずりこまれそうで怖い、と。僕は後ろ髪を引かれるような思いで駐車場に向かった。僕は何も引きずり込まれそうになったわけではない。ただもう少し浸っていたいだけだったのだ。本当の静寂というものに。

written on 6th, oct, 2001

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