うちに30年以上前のスウェーデンの電話がある。非常に使いやすいデザインで、いまだに現役なのだが、いかんせん当然ダイアル式なのでプッシュ回線に変えた今ではかけることができない。つまり受信専用である。かかってくるだけの電話。なんかこれは電話の一つの側面を象徴しているかのようだ。
たとえば自分が一人の女の子と知り合って恋をしたとする。彼女は電話番号を教えてくれないとすると、自分が彼女との接点を持つにはひたすら電話を待つしかない。こんな状況じゃなくても、僕のように惚れた女性に電話すること自体に勇気が必要な人間は、しばしば似たようなジレンマに陥ってしまうのだ。どうやら僕という人間はややこしくできているようで、仕事の電話なんかだとまるで平気なのだが、例えば特に話す用事があるわけでもないがちょっと声が聞きたいとかいうときに、必要以上にあれこれと考えてしまうのだ。もしかして男らしくないかもしれない云々とか...。それでどうしようなどと考えているうちにかけるタイミングを逸してしまったりする。全く男というものは厄介なものである。
いまを去ること20年ほど前、僕は高円寺の駅から歩いて5分ぐらいのボロボロのアパートに住んでいた。松本零二の「男おいどん」という漫画がむかしあったが、ちょうどあんな感じの日もろくに当たらない4畳半一間のアパートだ。冬の間は特に、鼠に悩まされた。アパートの入り口の近くに鼠取りが置いてあったぐらいだ。もちろん風呂などはついてるはずも無く、トイレは共同、そして当然の如く電話も共同だ。そのころに僕は生まれて初めてと言っていい恋をしていた。もちろんままごとみたいなつきあいは高校のころにしていたが、いわゆる大人のつきあいはこのときが初めてだった。
当時僕はひたすら彼女からの電話を待っていた。彼女は湘南の実家に住んでいて、別にこちらからかけるのに気兼ねするような家でもなかったのだが、僕にとっては彼女からかかってくるということが大事だったのだ。特に用のない電話。つまり僕は彼女から必要とされている、求められているという実感が欲しかったのである。そのころの僕にとってはかける電話は求めることであり、かかってくる電話は求められることであった。考えてみると自分勝手でもあり、脆弱な発想でもあるが。
共同の電話はアパートの入り口に置いてあり、もちろん呼び出しだったのだが、管理人が常駐しているわけではないので最初に電話を取った誰かが取り次ぐ、ということになっていた。僕が入り口にしゃがみ込んで彼女と長電話をしていると、他の住人に顰蹙を買ってたまに苦情を言われたものである。そんな感じで、夜自室にいるときに電話の鳴る音が聞こえるたびに、自分にかかってきたのではと耳を澄ませていた。毎日毎日そんなふうに電話を待っていた僕は、いつのまにかすっかり電話が嫌いになっていた。もともとあらゆるものを待つことが苦手なのだが、四六時中待っているとひどく電話という存在がしんどく思えてしまったのだ。要するに純情だったのだよ...。
いまとなっては留守番電話や携帯が普及して電話の価値もすっかり様変わりしてしまったが、実を言うといまだに僕にとってはかける電話は求めることで、かかってくる電話は求められていることだったりするのだ。僕は誰かに必要とされていたいのだ。それで自分の存在意義を確認したかったりする。だから僕にとっての電話とは、自分の存在意義をある側面で象徴しているものでもあるのだ...。
いつか鳴らなくなる日が怖い。