time is money vol.10

「思い出したこと」

なんでこれがvol.8とvol.9を飛ばしてvol.10なのかと言うと、8と9は例のアップしなかったヤツなのだ...

最近どうも我ながら雑誌やらネット上やらの、特に理論先行型の記述に関してカリカリしていたのはどういうわけだろうと考えた。結局は自分も同じ理屈の上で動いているわけなのだが...。

それで一昨夜風呂に入っていて、はっと思い出した。というか自分ではどこかでわかっていたのだが、敢えて思い出したくなかったのだ。

随分前にも書いたが、そもそも僕がずっと打たないでいたパチンコを再び打ち始めるきっかけとなったのが、以前つきあっていた彼女だった。僕とつきあい始めたころの彼女は典型的なパチンコ依存症で、下手すると会社の昼休みにも打ってたりするような状態だった。彼女は当然の如く負け組で、オカルトの人だった。不思議なもので、僕が釘を再び勉強し直そうと思ったのも、彼女がマンション久保田(だっけ?)かなんかの本を読んで、やっぱり基本は釘だって、と言ったのがきっかけだったりする(笑)。そんなこんなで彼女と一緒にパチンコをまた打つようになったのだが、ちょろちょろと雑誌を読んだりしていつのまにか僕の頭には現在の回る台で持ち玉で粘るという必勝法がおぼろげながらあった。とは言うものの、その当時は(近い時点での)実際に打った経験は圧倒的に彼女の方にあったわけで、彼女には彼女の理屈というものがあった。いわく、CR機で14箱ノマれたことがあるので(そこまでやるかね)闇雲に粘るとろくなことは無い。いわく、朝イチは必ず500円で食いつく台がある、等。どちらも場合によっては確かに当たってはいるのだ。回らない台で粘ればマイナスを食らう確率の方が圧倒的に高いし、10回転やそこらで食いつく確率は思った以上にある。ただ、問題はそれが確実な必勝法には結びつかないので、結局は行き当たりばったりになってしまうということ。第一彼女はプログラムの抽選方式も理解していなかったし、いまだに天国モードと地獄モードがあると思っていた。そんなことはこの際どうでもよくて、肝心なのは彼女がパチンコを好きで打っていたということ、パチンコを打つことを楽しんでいたということ。だから二人で打っていて二人とも出たときは本当に楽しかったものだ。

当時はよく地元で打っていた。なんとなく理屈がわかり始めていた僕は、まだ釘は読めなかったが、一人で打つときはそれなりに粘って勝ったりしていた。あるとき、地元のO店に平和のクライマックスという変則ゲージのノーマル機が入った。なんの変哲も無いノーマルデジパチなのだが、3・7無制限という厳しいルールで、それなりに回っていたんだと思う。ノーマル機なので他の台よりは初当たり確率が高いのでそれなりには当たる。で、一時期好んで打っていたのだが、ある日彼女と一緒に打っていた。そのころには僕が暇で毎日のように打っていたことと、それなりに基本がわかりかけていたこともあり、いつのまにか僕の方が勝てるようになっており、彼女は相変わらず負けが混んでいた。それで、彼女も多少弱気になっており立場は僕の方が強くなっていて、彼女もどの台を選んだらいいのか僕に聞くようになっていた。それで彼女がラッキーナンバーを引いたのでとにかく粘れ、と僕は言ったのだった。ノマれても札がついている間は追加投資しても粘れ、と。しばらくして同じシマで打っていた僕が横目で見ると、彼女はいつのまにかノマれて現金投資していた。心配になって見に行くと、ひどく哀しそうでせつない目をして、だってノマれても構わず粘れって言ったじゃない、と言うのだ。その顔を見て僕はひどくいたたまれない気持ちになってしまったのだった...。

その後もパチンコのことでは僕が確率のことやプログラムの抽選のことなどを彼女に説明しようとしてよくぶつかった。そのうち彼女は負けが混んですっかり恐怖症にかかり、反対にパチンコのことを毛嫌いするようになってしまった。別にそれだけが原因では無く、それ意外でも価値観が違うことが多かったのも別れた原因でもあるのだが、別れるころにはすっかり僕の方がギャンブル好きで彼女の方がギャンブル嫌いのような構図になってしまったことは確かだ。

僕がいまだに気になっているのは、いくら理屈に適っているとは言え、いくら彼女に勝たせようと思ったとは言え、結果的にいろんな意味で彼女を傷つけてしまったこと。当時の台選びが未熟だったり、僕の伝え方が拙かったりということもあるが、例えそれがパーフェクトだったとしても結果は大差無かっただろう。彼女がパチンコをやめたことは彼女自身が選んだことだし、彼女のためにはよかったとは思うが、一方では彼女の楽しみを奪ってしまったような違和感もある。何よりも二人で打っていたときは本当に楽しかったのだ。僕が近頃正論を大上段に構えてともすれば啓蒙するような言動を取る人たちにカリカリしてしまうのは、どこか当時の自分を見るような気がしてしまうからだ。別に楽しめればいいなどと言う気は無いが、ひたすら理論通り打って勝てさえすればいいという考えには何かが欠落しているような気もするのだ。

僕はいまでもあのときの彼女の顔を思い出すと、ひどくせつなくなってしまう...。僕は所詮センチメンタルな人間である。いずれにしろ、これでしばらくこの、人が理論を構える云々については書かないことにしよう。

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