time is money vol.14

「東京画」

パチプロと云うもの。...

僕はこのページのアドレスを本業の知り合いには教えていない。要するに恥ずかしいのだ。このページの内容や存在自体が非常にプライヴェートなものだから。大元の原因はA型と云う血液型から来ているのかどうか、それとも田舎者だからか、根本にある保守性と、生来のはにかみ屋と云うところなのだが。結局、何が恥ずかしいと云って、いい年をしてクソ真面目にパチンコを打ってたりすると云うこと。逆の見方をすれば、いい年をしてコマーシャリズムにどっぷりと浸かった音楽(業界)に未だにしがみついていると云うこともかなり恥ずかしい。何やらそう考えると、自分が生きていること自体すら恥ずかしく思えてしまったりもする。

パチンコを打つことが恥ずかしいのはどうしてだろう?知り合いと一緒にパチンコ屋に入る分には平気だが、偶然知り合いとパチンコ屋で出会ったりすると酷く恥ずかしかったりする。結局はパチンコと云うものが、社会的には大儀の意味での遊びとしか認知されていないと云うこと、職業として社会的に認知されていないと云うことだ。

ドラマの「OUT」をずっと見ているのだが、人間一度本で読んだものでも意外と忘れているもので、話が進むにつれてああそうだったななどと思い出したりする。田中美佐子演じる主人公が渡辺えり子とビジネスとして死体解体を引き受け、二人がクールに処理するのを哀川翔演ずる仕事を持ち込んだヤクザが「カッコいい」と感嘆の言葉を以って見る。同類が故、と云うこともあるが、殺し屋にしても然り、何故か社会的に認知されないプロフェッショナルと云うのはクールである。その意味では、ホットなことが一つの価値を持つスポーツ界とは対極をなすものなのだろう。

まあ、別にパチプロが死体解体業や殺し屋と同列だなどと云うつもりではもちろん無いが、同じように勝負の絡んだ世界で考えると、囲碁や将棋、チェスと云った世界に通ずるものはある。ふと考えるとゲームと云う意味では同じだ。大体に於て、将棋のプロが熱くなって「さあ、来い!」とか、「よっしゃあ!」などと云うのは聞いたことが無い。よしんば居ても即除名だろうな...。少しパチンコと云うものが格好よく見えるように擁護すれば、インテリジェンスを要する知的ゲームと云う括り方もある。ま、その割りには体力がいるが。

僕の知る限り、世界的に有名な海外のアーティストで一番のパチンコ好きは、映画「パリ・テキサス」などで有名な、ドイツの映画監督であるヴィム・ヴェンダースである。彼の場合は、そもそも小津安二郎に傾倒していると云う背景があって、ことのほか親日家でもあるのだが。

海外の(アーティスティックな)映画でパチプロと云うものが登場するのが、かのヴェンダースのドキュメンタリー映画である「東京画」だったと思ったので、さて、英語でパチプロってなんて云っているのだろう、とヴィデオを引っ張り出して見直してみた。この映画はそもそもヴェンダースによる小津、特に「東京物語」に対するオマージュなのだが。再生を始めてみると、ドイツとアメリカの合作の癖に、ヴェンダース本人によるナレーションは何故かフランス語である。なんだ、と思いながら少々早送りして例のパチンコ屋を撮っているシーンを見てみる。しかし、この後に出てくるタクシーの中から見た風景もそうだが、外国人が撮影した日本の風景と云うのは、どうしてこうエキゾチックなのだろう。まるで撮影した当人の眼をそのまま投影しているかのようである。風景や街の雑音さえ、まるで「ブレードランナー」の近未来のロスそのままに見える。撮られている人々は皆典型的なアジアの人間そのものに見える。

件のところに差し掛かると、「パチプロ」と云っていると思ったのは僕の記憶違いで、ヴェンダースはただ一言、”professionnel”つまり、「プロフェッショナル」と云っているだけだった。なるほど。それでいいのである。別にパチンコであろうが、死体解体であろうが、よしんば二十歳前の女の子が下着をちらつかせて歌う音楽であろうが、要はいかにプロフェッショナルであるか、と云うことなのである。やれやれ。

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