something wild

「ワイルド・ライフ」

下に書き忘れたけど、かっこいいことが前提ね...

僕はいい意味での価値観の表現として「ワイルド」という表現をよく用いるのだが、たまたま先日曲の感想で使ったところ、「ワイルド」ということについて尋ねられたのでなんか書いてみよう。

ひとくちにワイルドと言ってもTPOでさまざまなのだが、僕が最近出会った人でワイルドだな、と思ったのはロンドンのコーディネイターの女性。何かにも前に書いた(このコラムだったと思うけど)が、去年バンドの仕事でロンドンに一週間ばかり行ってたのだが、そのときのコーディネイターを頼んだのがハワイ生まれの僕と同い年のアメリカ女性。日本語も英語(当たり前か)もペラペラなのだが、とにかく彼女はワイルドなのだ。誰に対しても臆することなくストレートに自分を表現する。ときとしてはこちらが圧倒される勢いである。僕と同行した日本のスタッフやバンドのメンバーはビビる人多数。考えようによっては典型的なアメリカ女性とも言えるのだが、自分を抑えることが美徳とされてきた日本人には少々面食らうところがある。僕もどちらかと言うといかに自分を律するかといういささかマゾヒスティックなストイシズムを好む方なのだが、本業になると途端にアメリカンスタイル(笑)になる方なので、一度彼女に説教をした。ま、一応こちらが雇っているという立場もあったんだけど。それはともかく、そういう日本人特有の背景もあって、僕から見ると日本人というのは自分をストレートに表現するのが苦手な人種なのである。だから、突然臆することなく自己表現ができる人間が目の前に現れると、戸惑うと同時に羨望を覚えたりするのだ。その羨望がいい方に作用すると、自分を代弁してくれているような爽快感(カタルシス)を覚えたりする。逆に悪い方に作用すると、単なるうざったい奴もしくは出る杭になったりもするけど。

音楽のフィールドで僕がワイルドというのはこのいい方に作用したときのカタルシスを得られるものを指している。これはどちらかと言うと元をたどればわかるとは思うが、日本人のもっとも得意とする繊細さやセンチメンタリズムと対極にあったりする。しかし、全く無かったわけではなく、古くは歌舞伎の語源となった「かぶき者」と言われた人たち等、どちらかというと異端として存在していた。例えば、浮世絵で言えば広重はワイルドじゃないけど写楽はワイルドだ。ただし、広重がよくないということでは無い。

もう少し見方を広げると、当人そのものがワイルドじゃなくとも、表現者としてワイルドだったりということもある。最近では、椎名林檎はワイルドなアーティストだ。プロモーション・ヴィデオで見る姿も、声も、唄い方も、歌詞も。僕は本人を直接は知らないので本当の彼女がどうかはわからないが、所属レコード会社の友達に聞いたところによるとこの間ぶっ倒れたらしいので、案外繊細なのかも知れない。もしそうだとすると、一見矛盾するようだが、彼女は自分の繊細さを表現するやり方がワイルドなのだ。

では、最近の「ちょーむかつく」を連発するだけの連中(特に女性)がワイルドかと言うと、とんでもない、ストレートに自己主張・自己表現するのと単にオリジナリティとしての自己も持たずに自己中心的なのとは別個のものだ。第一、連中にはオリジナリティ以前に主張もしくは表現するものがそもそもない。残るのは単なる空虚な乱暴さだけだ。

僕がワイルドを表現するのに、繊細のアンチテーゼとして「乱暴」という言葉を用いることがあるが、これは要するに「思い切り」ということである。簡単に言うと、思い切りの悪い、あるいは思い切れない人たちにとって、思い切りのいい人、あるいは思い切った表現というのは、やけに小気味よく、爽快に映るものなのだ。

古い話で恐縮だが、ジェフ・ベックの名作「Blow by blow」の邦題は「ギター殺人者の凱旋」という物凄いタイトルがついていた。誰が付けたのかは知らないが、実にワイルドな命名ではないか。ま、意味わからんけどね。

長くなったのでパワーとか地域性とかはまたの機会に。ワイルドに生きるみたいなことも書こうと思ってタイトルつけたんだけど、あんまり関係なくなっちゃった。ま、いいや、直すの面倒だから。

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