ハリウッドで撮った「刑事ジョン・ブック/目撃者」で一躍脚光を浴びたオーストラリアの映画監督、ピーター・ウェアー(Peter Weir)の最初の出世作と言えば「ピクニックatハンギングロック」である。この映画は今から100年ほど前のオーストラリアで起こった神隠し事件を描いたものだが、僕の大好きな映画である。とにかくアン・ランバート演ずる行方不明になる女子学生ミランダが素晴らしく美しい。映画全体が夢のような美しさに満ち溢れている。結局、映画では神隠しの謎は謎のままなのだが、それも一種不思議な美しさを持つ世界をつくることに貢献している。ピーター・ウェアーはハリウッドで成功した監督だが、作風がどこか文学的で静的であり、ちっともハリウッドっぽくないところが好感が持てる。最近堕落したが、昔はよかったリドリー・スコットや、テレンス・マリックあたりに共通する映像美がある。
ところで、この神隠しだが、なんで行方不明じゃなくて神隠しなのか、というところがポイントだろう。大儀の意味では行方不明なのだろうが、行方不明というのは事故のように原因がわかっているが発見できないとか、いくつか原因は推測出来るが特定できない、ということだろうと思うが、神隠しというのは原因そのものがわからない。要は忽然と消えてしまった(或いは消えてしまったように見える)ということである。
大方の神隠しというのは、いずれ何らかの理屈の通った現実があるのだろう。以前テレビの特番で何度か取り上げられた、山村の幼児がたかだか5分ぐらいのあいだに忽然といなくなってしまった事件も、山間の家と言うことで神隠しと取り沙汰されていたが、そんな場所でもたまたま余所者が山の中かなんかに潜んでいて誘拐してしまったとしても可能性としてはあり得る。ただ、タイミング等を考えると恐ろしく稀な可能性であることも確かで、それが皆首をひねる原因であったりする。ただ、幼児がどこかひとりで出かけてしまい、本当に死角になってしまうようなところに落ちてしまったりということもあるわけで、ごく常識的に考えれば、いわゆる神隠しのほとんどは常識と稀な蓋然性のギャップによるものだったりするのだろう。つまりは、我々の理解力や想像力の盲点に陥っている、ということなのだろう。
手元にピクニックatハンギングロックのパンフレットがあって、終わりの方にオーストラリアの新聞記事の抜粋が載っている。それによると、元ネタになった事件の推察がさまざま書いてあって、「パラレルワールド説」、「招天=UFO説」、「アボリジニの儀式説」、「殺人説」といった諸説が書いてあるのだが、大体においてこういう場合には超常現象説というものは必ず出てくる。最後の殺人説だけはやけに現実的で何やら一番真実味がありそうなのだが、夢がないことも確かだ。真実味がありそう、ということと真実だということは全く違うというところがミソでもあるのだが。パワレルワールドとかタイムスリップといったものはやけに荒唐無稽に思われてしまうが、考えてみれば時間の束縛の中でしか判断ができない我々にとって、その枠をはみ出したものは到底理解できないので、現実に起こったとしても理解や想像には限界がある。ただ、アインシュタインの相対性理論のように時間の変化というものが理論上起こり得る以上、あっても不思議ではない。同様にUFO説というのも、単に蓋然性の問題である。要は起こったのか、起こらなかったのか、というそれだけのことである。
実際のところ、現実というのは嘘みたいなことが起こったりしているのである。まあ、どこまで本当なのかわからないけど、最近報道されているように北朝鮮に拉致された人々が行方不明者の中に混じっているというのは多かれ少なかれ確かなのだろう。当事者には気の毒なことだけど、冷戦も終わったいま、ウソのような話ではある。考えようによってはあの国自体がウソみたいな国なんだけど。あとはちょっと前のホメイニ師を糾弾した本を日本語に訳した人が、茨城かなんかの自宅マンションで恐らくイランのアサシン(暗殺者)に殺された事件。関係者には本当に気の毒なことだけど、まったくもってゴルゴ13みたいな話ではある。ま、シーラカンスが未だに生きていて泳ぎまくっているくらいだから...。
考えてみると、ここ数年単位で考えてみても、地球上の行方不明者の数というのは膨大な数だろう。百年単位ともなるとものすごい数、千年単位ともなると天文学的な数字になると思われる。なかには本当に忽然と消えてしまった人がいる、と考えた方がむしろ自然なくらいである。要は彼らがどこに行ってしまったのかが問題なのだ。
まあ、謎というのは謎だから余計知りたくなってしまうのだ。若戸あきらの記憶喪失はホントだったのか、とか(笑)。そう言えば思い出したが、僕のしゃもじはどこに行ってしまったのか?神様もつまらないものを隠すものである。