how to write

「小説の書き方 その1 文体」

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小説の書き方、と言っても、作家でもない僕が人様に書き方を教えられる筈もなく、術もない。要するに「小説の書き方」について考えてみようとするだけのことである。まあ、あれこれ考えてみることで自分にとってもなにか発見があるかもしれぬ、と。

最初はまず、文体ということから考えてみたい。一番最近読んだ本で、ジェイムズ・エルロイの「わが母なる暗黒」という本があって、まあこれはノンフィクションでもあるし、エンターテインメントの作家であるというところからも果たして題材として適当なのかは疑問なのだけれど、ちと考えさせられることがあったので取り上げてみたい。文体に特徴があると言われているわりには作品ごとに文体が違ったりする作家なのだが、この本に関してはとにかくセンテンスが短い。徹頭徹尾短い。簡潔と言えばこれほど簡潔な文体もないかと思われるのだが、それが読みやすいかというと、かえって読みにくいのだ。なんでかっていうと、これがまたやたらと長い本なのである。エルロイが10歳のときに殺された母親のことについての本なのだが、事件自体はむしろ凡庸でありふれた殺人事件で、だからこそ迷宮入りしたとも言えるのだが、そのことだけで(確かに本人にとっては非常に大きなトラウマであり大事件であるのだが)これだけ長い本がよく書けるな、というぐらい。まあ長いということで言えば他にもいくらでも長い作品があるのでなにだが、ことこの本に関して言えば非常に短く簡潔な、極端に修飾を辞した表現を積み重ねているため、情報量たるや莫大なのである。うがった見方をすれば、いらない情報が多すぎるのだ。だから、ともすれば冗長な映画のようにうんざりもするし、やたらとでかいジグソーパズルを目の前にしたような気分にもなる。比喩の少ない文体は乾ききった表現とも言えるが、それはともすると単調なリズムになりかねない。この本を読んで思ったのは、とにかく簡潔な文体=読みやすいということではない、ということだ。要するに、簡潔な文体というのは、平易な文体とイコールではない。

この本から読み取れるエルロイという人間はむしろ饒舌だということが面白い。つまりは、饒舌な人間が簡潔な文体を使うと作品自体がやたらと長くなってしまうということなのだろうか。話の焦点がどうも長さというところにいってしまったのでついでに考えると、僕はレイモンド・カーヴァーのようなミニマリストではないが、小説を書く上で難しいのは、いかに削るか、ということである。他の人は知らぬが、散々頭を捻って書いた文章は一言一句たりとも愛着がある。それを削るというのは、書き足すより遥かに難しい。っつーか、心情的に削りたくない。しかし、大概の場合、いかに削るかというところに作家の構成力とか読者のイマジネーションというものは委ねられる。ような気がする。あ、これは短ければよいということとは違うので念のため。この長さというのはまた違うテーマもあるので別の機会に。

でまた文体というテーマに戻ると、このエルロイと対極のような文体として、例えば村上春樹を挙げたい。彼はとにかく比喩が多い。そしてそれが巧い。センテンスだけを読むと、これだけ楽しい文章を書ける人間も珍しい。追従者が山のように現れるのも肯ける。(ちなみに僕も文体が似ていると一時期言われたことがある。しかし、気にしないことにしている。そんなことを気にしていると切りがない。)例えば、「スプートニクの恋人」という作品では、この見事な比喩を連発していて、さながら比喩辞典のようである。出だしからしてこうだ。

……とここで引用しようと思ったのだが、どういうわけか本が見つからない。なので、試しに本屋で最初の1ページを読んでみて欲しい。それは見事な表現である。ちょうどよいユーモアの加減も申し分ない。しかし、である。そのセンテンスとして見事であっても、ちょっとさじ加減が多すぎるとやり過ぎになってしまう。味が濃すぎてしまうのである。僕がこの「スプートニクの恋人」を読んだ感想は、ひとつひとつの文章は見事なのだが、全体としては比喩が多すぎ、ストーリー自体は消化不良、というものだ。これは文章というものに頭を捻れば捻るほど陥りがちなことでもある。

他にも僕の思いつく範囲で最近の文体に特徴がある作家では、町田康の落語饒舌体とか車谷長吉(ちょうきつ)の独白体、「日蝕」における平野啓一郎のやたら漢字難しい体(?)、舞城王太郎の若造口語体、最近じゃないけど丸谷才一の旧仮名遣い、等々、とてもちょっとやそっとで語り切れるテーマではないのだが、などと今さらながら気づいたりもするのだが、強引にまとめるとこんなところか。

小説は文体だけでは成立しない。

おあとがよろしいようで。

written on 26th, mar, 2004

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