ときおり思うんだけど、僕らはほとんど過去を生きている、と言っても過言ではないだろう、などと思うのであった。なんでかっていうと、現在というものはホントに瞬時にしか存在せず、次の瞬間には既に過去になっているからである。つまり、僕らは延々と過去を積み重ねているわけだ。生産していると言ってもいい。では未来はどうかというと、これはいまだ存在せず、いずれ過去になることが確定している。物凄く乱暴なことを言ってしまえば、未来など存在しない。何故なら、それはまだ起こっていないからである。正確に言えば、「まだ」存在しない。いずれにしても、現在、未来というものは過去になるべくして存在しているのだ。過去の予備軍と言ってもいい。たとえば、面と向かって携帯で話してみるとよく分かる。当人たちはリアルタイムで話しているつもりでも、電波が届く時差があるのである。だから、まるで国際電話みたいだ。目の前で喋っていることがずれて聞こえるというのはまことに不思議な気分だ。だから、実際には僕らはリアルタイムで話しているのではなく、過去の中で会話しているのである。
そういう風に考えていくと、僕らの人生そのものがイコール過去の集積である、ということになる。極端な話、現実を脳に伝達して認識するタイムラグを考えれば、僕らは過去にしか存在しないも同義だ。しかしながら、現在というものは確かに存在する。ナノレベルの極端に短い瞬間の連なりとして、確かに存在はするのだ。ただ、決して立ち止まらないだけで。ということは、逆の見方をすれば、僕らはほんの瞬間、瞬間を生きているに過ぎない。これを意図的に長くすることは擬似的には可能だ。マリファナを吸い過ぎると、視覚が過敏になって、世界がストップモーション、つまりコマ送りに見える。まるでストロボでも焚いているように、パッパッパッと止まって見える。僕はこれをうつ病の症状としても体験した。しかし、これらは先に述べたように飽くまでも擬似的なものであって、決して世界が止まったわけでも、時間が止まったわけでもない。
さて、話を未来に戻そう。では、僕らには未来はないのか、というと、あるのである。何故なら、未来がなければ過去もないことになってしまうからだ。つまり、過去を生産するものがなくなってしまうからである。だから、時間が止まらない限り、未来は常に存在する。ただし、「時間」という流れがあるという条件下で。これが冒頭に述べた、「未来は存在しない」ということの逆説、パラドックスになっていることに注目して欲しい。だんだん話がややこしくなってきたが、未来は「まだ」存在していないが故に、常に存在するのである。そう考えると、予言というものは常に成立しない。存在していないが故に存在している未来を予見することなど無意味である。我々が述べることが出来るものは常に過去であって、それ以外は単なる想像の範疇でしかない。つまり、あらゆる予言は常に無意味だ。
では、僕らは果たして過去を生きているのだろうか? 答えは否、である。何故なら、過去とは既に終わったものであるから、それを生きることは出来ない。僕らに出来ることはそれを省みることだけだ。先にも書いたように、僕らは現在という瞬間瞬間を生きているのである。しかし、それを認識するときには既に過去になっている。要するに、認識という作業自体が過去のものである。まあ簡単に言えば僕らはほんの瞬間しか存在することが出来ない。それが無常というものであり、一寸先は闇ということである。
でもまあ、悲観することはない。何故ならそれは今に始まったことではないし、「生きる」ということはそういうことだからだ。子供が果たして過去ばかりに拘るか? 子供が未来に夢を抱くことを止めるか? 赤ん坊が現在以外のどこを生きているというのか? 大人になってしまい、これから老人になっていくであろう僕らは果たしてどう生きるべきなのか。過去をどう受け止め、未来をどう想像し、現在という瞬間をどう生きればいいのか。そんなことは僕は知らない。僕らはただ、過去に浸り、未来をぼんやりと想像し、止まることなく押し寄せてくる現在という瞬間を生きればよいのだ。ただ僕が言いたいのは、過去っていうのもまんざらではないな、ということだ。つまり、人生っていうのもそう悪いもんじゃない。
written on 5th, jun, 2008