幽霊譚                        

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1.

 

 ある晩、僕のもとに幽霊が現れた。

 正確には、訪ねてきた。

 

 僕は社会人一年目で、引っ越したばかりだ。右も左も分からなかった会社にもようやく慣れてきたころに偶然駅前の不動産屋で見つけた物件だ。渋谷から電車で十分ちょっとの私鉄沿線で、駅からは徒歩十分。三階建ての二階の真ん中で、南向きなので日当たりもいい。通りの向かいには小さな公園もあるし、閑静な住宅街だ。このロケーションで、振り分けの2DKの間取りで家賃が八万円というのは、いくら不景気だと言っても格安だ。バカ安と言ってもいい。紹介してくれた陰気な顔をした駅前の不動産屋も、こんな物件ないですよ、と眼鏡を意味ありげに直しながら言った。僕は即座に契約した。去年一年間バイトして貯めた金を使い果たすことにはなったが、これで僕も社会人三ヶ月目にしていっぱしのマンション住まい、というわけだ。

 僕が入ったのは出版社だ。それほど大きくも、極端に小さくもない。僕は営業に配属された。本当は編集に行きたかったのだけれど、これはまあしょうがない。そのうち行ければいい。それよりも僕がラッキーだったのは、この仕事が案外楽だということだ。まず外出が多い。これは営業だから当たり前だが、行き先は取次と呼ばれる卸や、担当地区の本屋だ。直行や直帰という技も使えるのでかなり楽だ。しかも、編集に比べると、締め切りがあるわけでもないし、週に一度徹夜をするわけでもない。残業はほとんどないに等しい。土日もきちんと休める。ひと月ほど経って、次第に慣れて来ると、どうやらここは窓際に近いセクションだということが分かった。先輩社員も、どこかのんびりした人間ばかりで、いかにも出世街道からはずれたような人間ばかりである。おまけに皆絵に描いたようなナマケモノだ。これは楽である。つまり、皆が楽をしたいと思っているので、自分も楽ができる、というわけだ。後は自分がこのぬるま湯にずっと浸かっていたいと思うのか、それともここから這い上がって行こうとするのかは本人次第だ。とりあえず、今年一年はぬるま湯にゆっくり浸かっていようと思った。

 そんなわけで、このところの僕はツイている、と思った。

 話は僕が引っ越してから二週間ばかり経ち、ようやく新居にも慣れて腰が落ち着いてきたころのある晩に始まる。

 

 幽霊はピンポーンとドアチャイムを鳴らしてやって来た。

 僕はソファに寝っ転がって、ニュースステーションを見ていた。久米宏が、CMの後はスポーツです、と言った途端にドアチャイムが鳴った。こんな時間にいったい誰だろうと思った。もうすぐ十一時である。大体、引っ越してからというもの、両親以外にここを訪ねてきたのは、新聞の勧誘と宅急便ぐらいである。そのいずれにしても、訪ねてくる時間にしてはいささか遅過ぎた。

 僕はいぶかしりながらも腰を上げ、どなたですか、と言いながら玄関先まで行った。返事はない。おかしいな、と思ってドアスコープを覗くと、若い女の子が立っていた。ドアスコープから覗いても可愛い女の子だった。僕はとりあえずここはこの際誰でも構わないから出るべきだ、と思った。僕には彼女がいない。可愛い女の子と知り合うきっかけは、どんな些細なことでも逃すべきではない。と、そんな風に理屈をこねるより先に、ドアを開けていた。

「こんばんは」

 そう言って彼女は微笑んだ。彼女は白いポロシャツにカーキ色のスカートを穿いて、女子大生ぐらいに見えた。日本的な顔立ちだが美人と言ってもおかしくないし、とにかくキュートだ。肩ぐらいまでのワンレングスのボブにした髪型もとても似合っている。僕は二秒ほど見とれたあと、常識というものがアタマに甦ってきた。こういう場合、考えられるのは次の三つだ。

1. 宗教の勧誘

 2. 風俗の飛び込み営業

 3. 部屋を間違えた

 この場合、2に関してはいささか常識的ではないように思えた。1と考えると、見た限り彼女は何も持っていない。手ぶらだ。とすると、可能性は薄い。残るのは3だ。しかし、彼女は僕の顔を見てもにこにこ笑っているだけである。

 とりあえず僕の口から出たのは、「えーと……」という言葉で、後が続かなかった。その「……」の間に、彼女は既に玄関に片足を踏み入れながら、「上がってもいいかな?」と言っていた。僕がドアに片手をかけて唖然としている間に、彼女は靴を脱ぐとさっさと部屋に上がってしまった。

 小首を傾げつつドアを閉めながら、「あの」と声を発して振り向くと、彼女の姿は既になかった。あれ、と思いながら元いたテレビのある部屋に戻ると、彼女はちょこんとソファに座っていた。ちなみに僕の部屋の構造を説明しておくと、玄関を入ると六畳ほどのダイニングキッチン、玄関のすぐ左隣が洗面所とトイレ、その奥が浴室、キッチンの突き当たりが四畳半の部屋で、ここにはベッドと机を置いて寝室に使っている。その部屋と隣り合わせに、つまり玄関から入るとキッチンの左手奥のドアを開けると、六畳の部屋があって、そこにソファとテーブル、テレビやオーディオといったものを置いて、リビングにしていた。彼女がさっさと入って座っていたのは、このリビングのソファだ。玄関で靴を脱いでから座るまでの時間を考えると、まるであらかじめそこにソファがあることが分かっているかのようだった。とにもかくにも、3の部屋を間違えたわけではなさそうである。

「えーと……」

 部屋の入り口に立って、僕は先程と同じ言葉を発していた。この場合、なんと言ったらいいのか分からなかった。彼女は平然と、というか笑みを浮かべてこちらを見つめていた。

「コーヒーでも飲む?」

 結局僕の口から出た言葉はこれだった。彼女は「うん」と勢いよくうなずくと、微笑んだ。テレビでは川平慈英が「いいんです」と必要以上に力を込めて言っていた。

 僕はキッチンに戻って、薬缶を火にかけると、ブラウン製のミルに豆を入れてつまみを回した。ミルはこの時間にしては近所迷惑な馬鹿でかい音をたてて豆を勢いよく挽き始めた。挽き終わった豆をドリップに移すと、お湯が沸く間、彼女の様子を覗いてみた。彼女はきちんと両足を揃えてソファに座り、ニュースステーションを見ていた。

 カタカタと蓋が鳴って湯が沸くと、二つ並べたマグカップにまず暖めるためにちょっとずつお湯を注いで、それからドリップの豆に蒸らす程度に湯を注いで、二十秒間待った。言うのを忘れたが、僕は凝り性なのである。ちなみに喫茶店でバイトをしたこともある。

 出来上がったカップをふたつ持ってリビングに行くと、ひとつを彼女の前に置いて、自分はちょっと考えて床のクッションの上に座った。この場合、見ず知らずの女の子といきなりソファに並んで座るというのもヘンかな、と。ヘンと言えば、そもそもこの状況自体が既にヘンなのだが。

 彼女はありがと、と言うと、カップを持っておいしそうにひと口すすった。そして、おいしい、と言って微笑んだ。僕は自分もコーヒーをひと口飲みながら、ありがと、と答えた。

 テレビはCMになっていた。一見まるで恋人が訪ねてきたような妙なツーショット状態に、気詰まりを覚えて無性に煙草が吸いたくなった。僕は彼女が何か言い出すのを待った。マグカップを手に彼女を見つめると、彼女はにこやかな笑みを浮かべながら見つめ返すだけだった。僕は我慢できずに彼女に訊いた。

「ねえ、煙草吸ってもいいかな?」

「いいよ」

 僕はほっとしてありがと、と言いながら、テーブルの上に置いてあったマイルドセブンライトを一本取り出すと、ジッポで火を点けた。深く吸い込むと、ふーっと大きく煙を吐き出した。まるで安堵の溜息のように。そこでふと考えると、僕と彼女の会話でさっきから一番多いのが、「ありがと」だということに気づいた。それに彼女がタメ口だということにも。それは全く自然だったということと、彼女ぐらいの年ごろの女の子はみんなそんなもんなのだ、という先入観があって、それまで不思議にも思わなかった。

 しかし、考えてみれば考えてみるほど、この状況は不思議だった。

 僕はとにかく、一番訊きたいことを尋ねてみることにした。

「ねえ、ところで、きみはいったい誰?」

 彼女はちょっと小首を傾げて、そんなことも分からないのか、という表情をして答えた。

「幽霊よ」

「幽霊?」

「そう」

 

2.

 

 彼女は当然じゃない、とでも言いたげな顔をした。おかげで、僕はしばし呆けたように口を開けたあと、はいそうですか、という顔をせざるを得なかった。しかし、そう簡単に納得のできる答えではない。僕はもっと突っ込んで訊いてみることにした。それにはテレビがうるさ過ぎる。

「ねえ、テレビ消してもいいかな?」

「いいよ」

 僕はありがと、と言いそうになるのをこらえて、リモコンでテレビを消した。部屋に静寂が戻り、ちょっとした緊張感が、たぶん僕の方だけに漂った。僕はせわしなく煙草を吸いながら言った。

「あのさ、幽霊って言ったって、足があるじゃない」

 彼女は一瞬きょとんとした顔をすると、「どうして幽霊に足があったらいけないの?」と逆に訊き返し、眉をひそめると言った。「それって先入観じゃないかな」

「そう言われればそうだけど……」

「だいたい、あなた幽霊を知ってるわけ? 見たことあるわけ?」

「いや、ないけど」

 僕は彼女の勢いに思わず語尾が消え入るように答えた。そうなのだ。確かに僕は幽霊を見たことがない。UFOも見たことがない。僕の実家は、山形の片田舎にあるのだが、実家の真向かいが大きな寺なのだ。大きな墓地もある。子供のころ、僕はよく墓地で遊んだ。墓に乗っかったりもしたし、蝋燭を立てる釘が足の裏に刺さったこともある。夜暗くなってから肝試しに墓地を歩いて、小心者の僕は凄く怖かったのだが、それでも幽霊どころかひとだまも見たことがなかった。そもそも僕には霊感というものが足りないのか、いわゆる心霊スポットと呼ばれる有名なところに行っても、何も見たことがなかった。金縛りなら何度かなったことはあるけど、あれはレム睡眠云々という科学的解明が既になされている。つまり、僕は幽霊とかお化けとかポルターガイストとかゾンビとか、その手のものは一度も見たことがなかったのである。

 どうもそんなことがアタマに浮かんで、僕は一瞬気弱になった。なんか、彼女の方が正しくて、僕の方が間違っている、という気がした。

 気がつくとフィルター近くまで燃えていた煙草を灰皿で消して、ここで弱気になってはいかんと思いながらコーヒーをひと口飲むと、改めて訊いた。

「で、何しに来たのかな? その、幽霊が」

「理由がいるわけ? 幽霊が来るのに」

「そりゃそうだけど……」

 僕はまたしても劣勢に言葉を詰まらせながら、確かに彼女は可愛いけれど、少々理屈っぽいのが難点だな、と思った。まあこれは半分負け惜しみみたいなものではあるが。

 僕は話題の矛先を変えてみることにした。

「きみ、名前はなんて言うの?」

 そう言ったあとに僕はしまったと思った。これまでの経緯から察すると、当然、幽霊に名前なんて必要なわけ? という答えが返ってくると思ったからである。ところが、意に反して、彼女はにっこりと笑みを浮かべて答えた。

典子(のりこ)。川島典子。でもテンコでいいわよ、みんなそう呼ぶから」

「みんなって誰?」

「親とか友達に決まってるじゃない」

「幽霊に親とか友達がいるの?」

「バカね、生前の話よ、生前の」

 僕はなるほど、と思ったが、彼女は口調ほど人を馬鹿にした様子はなかった。むしろ無邪気に見えた。

「えーと、僕は」

「スグルくんでしょ。安川スグル」

「なんで…… あ、そうか、幽霊だもんね」

「ちゃんと表札に書いてあるじゃない。アルファベット付きで」

 そう言って彼女はコーヒーをひと口すすった。

 僕はようやくこの状況に慣れてきた。彼女のキャラクターも徐々に分かってきた。少しは冷静になりつつある。改めて彼女を観察してみた。確かに色白ではあるが、いわゆる生気のない死体のような青白さではなくて、近頃で言う美白という程度である。どちらかというと健康そのものに見える。つまり、外見からは、どこから見ても生身の人間で、しかも若さとかみずみずしさと言ったものさえ感じる。要するに、彼女はとても快活で、元気だ。まあ、元気な幽霊というものがいてもおかしくないのかもしれない。そもそも僕はそこまで幽霊というものについて詳しくない。ここはひとまず、女の子だという観点からだけ観察してみることにする。目は奥二重で目尻が優しい。鼻は高過ぎず、小振りなところがかえって愛らしい。口もちょうどいい大きさだ。笑うとちょっと笑窪が出来る。ポロシャツの襟元に覗く首筋からうなじにかけてはすらりとして、どこか少女を思わせるものがある。それに比べると、胸の膨らみは小振りな顔や華奢なからだつきに比べて思ったよりも大きくて張りがあることが見て取れる。くびれたウエストからヒップにかけてのラインといい、この子はセクシーなのだ。スカートから伸びた足も、モデルのように長いわけではないが、太過ぎず、細過ぎず、僕にとっては完璧だ。つまるところ、この子は僕にとってほぼ理想の女の子である。少なくとも外見上は。

 そんなことを考えているうちに、喉が乾いてごくりと生唾を飲みそうになり、僕はそれをごまかすために残りの冷めたコーヒーを一息で飲み干した。

 ふと気づくと、彼女はソファの足元にあった週刊誌をパラパラとめくっていた。そして「あ」と声を上げると、「ねえ」と声をかけてきた。「なに?」と僕が訊き返すと、彼女は週刊誌の真ん中あたりを開いて僕の方に向けた。それはヘアヌードのグラビアだった。巨乳の女の子が黒々とした陰毛もあらわに、爽やかな笑顔を見せていた。

「やっぱりこういうの見ながらひとりでするわけ?」そう言うと、彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべた。

 僕は思わず顔を赤らめると、「いや、それは、タマにはそういうこともあるかもしれないけど」としどろもどろになって答えたが、どうもからかわれているらしいことに気づき、むっとして彼女が差し出す週刊誌を奪い取って言い返した。

「勝手に人の物見るなよ」

「あ、赤くなってる。かーわいいー」

 僕はぶすっとした顔で週刊誌を部屋の隅に放り出したが、内心、見つかったのが無修正の裏本でなくてよかったと胸を撫で下ろした。そこでハタと気づいた。もしかして彼女は、さっき僕が彼女の肢体を想像して、少なからず性的な妄想に浸ったことを感じ取ったのだろうか? もし彼女が幽霊ならばそれも不思議なことではない。

 と、そこまで考えて、自分がすっかり彼女の言うことを信じかけていることに気づき、馬鹿馬鹿しい、とアタマから今の考えを振り払った。

「なに難しい顔してんの?」彼女は笑みを浮かべながら、僕の顔を覗き込むように訊いた。

「別に」

 そう答えながら、僕はどうも自分が空回りをしているような気がしてきた。

「あ」

 彼女がまた声を上げた。僕はまた何か突っ込まれるのではないかと身構えた。

「もうすぐ十二時だ。帰んなきゃ」そう言うと、彼女はすくっと立ち上がった。そして来たときと同じようにすたすたと玄関の方に向かった。

 僕は間抜けな付き人のようにその後を追いながら、間抜けな質問をした。

「幽霊にも門限があるわけ?」

 彼女は足を止めて振り向くと、きょとんとした顔で答えた。

「あるわけないじゃない」

 彼女はさっさと靴を履くと、僕に最上級の笑みを浮かべて言った。

「じゃ、またね」

 僕が呆気にとられて立ち尽くしていると、ドアを半分開けていた手を止めて彼女が振り向いた。その振り向いた顔が結構マジだったので、僕はちょっとたじろいだ。

「ねえ」

「な、なに」

「スグルってゲイじゃないわよね?」そう言って彼女は眉間に皺を寄せた。

「ち、違うよ」

 僕は我ながら何をどもっているのだろう、と思いながら答えた。彼女は再び思いきり笑顔を見せると、またね、ともう一度言って出て行った。

 ドアがバタン、と閉まった。

 後にはぼうっと突っ立った僕だけが取り残された。

 

3.

 

 目覚ましの音で目が覚めた。

 僕は寝起きが死ぬほど苦手だ。近頃でこそ、ようやく起きられるようになったが、初出勤のときは心配の余り、田舎の母親にモーニングコールを頼んだくらいだ。フレックスである編集の連中とは違って定刻はあるが、遅刻にそれほどうるさくない会社なのがせめてもの救いだ。というよりも、むしろ僕より遥かにルーズな先輩連中は遅刻の常習犯である。いざとなったら直行という手も使える。従って朝、会社のホワイトボードに書かれた直行という文字は、半分以上は果たして本当にその必要があってのものか怪しいものである。

 なんとか這うようにベッドから起き出した。今日はいつもに比べてもとりわけ眠い。何故かと言うと、昨夜なかなか寝つけなかったからだ。あれは果たして現実だったのだろうかなどと、答えの出ないことを考えていたので無理もない。まだ朦朧としている頭をぼりぼり掻きながらカーテンを開けると、外は雨だった。このところ晴れた日が続いていたのですっかり忘れていたが、そういえばまだ梅雨明け宣言は出ていないのだった。

 顔を洗って、オーブントースターを空焼きしながら、コーヒーを淹れるために薬缶を火にかけた。いつものマグカップが食器棚にないことに気づき、ふとシンクを見ると、昨夜洗わずに放っておいたままになっていた。それを洗おうと取り上げると、その隣にもうひとつ洗ってないマグカップがあった。僕はしばしそれを見つめて、やっぱりあれは夢じゃなくて現実だったんだな、と改めて思った。彼女に出した方のカップを取り上げて見ると、ふちにうっすらと口紅が付いていた。

 

 会社は六本木にある。僕は渋谷からバスに乗り換えると、六本木六丁目のバス停で降りた。会社に着いたのは、定時の一分前だった。僕がおはようございます、と誰にともなく言いながらオフィスに入っていくと、案の定、入り口近くの営業のセクションはまだ半分も来ていなかった。僕の席は、入り口を入ってすぐの、端から二番目だ。一番端はデスクの女の子の席になっている。彼女は僕よりも年下だが、短大を出て入社して二年目なので、会社では僕より先輩だ。そこそこ見た目も悪くないし、いい子だとは思うのだが、AB型なのでむらっ気なのが難点だ。僕は自分がA型であるということに何故かコンプレックスを抱いているので、血液型はなるべく信じないことにしている。そんな風に思っていること自体が、もしかしたら必要以上に血液型を意識しているということなのかもしれないけど、とにかく、彼女を見ていると、少なくともAB型に関しては人格が二つ以上ある、と思う。ちらっと見ると、どうやら今日は機嫌の悪い日ではないらしい。僕はその、香取さんの方に椅子をちょっとずらしながら、少々声を潜めて声をかけた。

「あのさ、幽霊って見たことある?」

 へ、という顔を一瞬したあと、彼女はそっけなく言った。

「幽霊? ないですよ。どうしてですか?」

「いや、なんでもない」

 僕は椅子を元の位置に戻しながら、そりゃそうだよな、と思った。馬鹿げている。確かに馬鹿げてはいるが、参考にもならんな、と辺りを見回した。

 窓側の奥に部長の坂崎が机に向かって一心不乱に何かを読んでいた。僕は立ち上がって坂崎の机まで行くと、おはようございます、と声をかけた。案の定、坂崎の読んでいるのはスポーツ新聞だった。坂崎は「イチロー二安打」と大見出しがついている新聞から目を離さずに「おう」とだけ答えた。

「あの、部長」

 僕が耳元で言うと、坂崎はようやく面倒くさそうに顔を上げた。

「なに」

「幽霊って見たことありますか?」

「あるよ」事も無げにそう言うと、坂崎はまたスポーツ新聞に目を戻した。

「あの、足ってありました?」

「足?」坂崎は再び顔を上げると、天井の方をしばらく見つめて考え込みながら言った。「あったかなあ……」

 僕が固唾を飲んで答えを待っていると、坂崎はあっさりと答えた。

「忘れた」

「忘れたって……」

「忘れたもんはしょうがないだろ」

「そりゃそうですけど。だいたい、部長、それっていつの話ですか?」

「オレが子供のころだ。そのころは可愛かったぞー、オレも」

 僕は嘘を吐くな、このアバタ親父が、と思いながら、一応参考のためにもう少し訊いてみることにした。

「どこで見たんですか?」

「あれは祭の晩だな。友達と一緒に帰る途中で見たんだよ。河原のさ、橋の下にぼうっと立ってんだよ、白い着物来た女が。走って逃げたよ、オレら。いやあ、怖かったなあ」

 坂崎はアバタ面の目を細めて懐かしそうに言った。

「部長って田舎どこでしたっけ?」

「東京だよ、東京」坂崎はむっとした顔で言うと、再びスポーツ新聞に熱中し始めた。

 僕は自分の席に戻り、香取さんに訊いた。

「ねえ、部長ってどこ住んでるんだっけ?」

「木場ですよ」

「ありがと」

 なんだ、下町じゃないか。下町の祭の日に、着物を着た女が立っているののどこが珍しいんだ? やっぱりここの連中はアテにならん、と僕は首を振った。

 

 僕はホワイトボードに「メシ」と書くと、香取さんにメシ食ってくる、と言って会社を出た。雨はまだ降り続いていた。傘を差しながら麻布警察署の裏手の喫茶店に入り、サンドウィッチを頼んだ。

 食べながら考えた。昨夜の出来事は果たしてなんだったのか? 本当に幽霊というものが現れたのか? 筋道を立てて考えてみようと思ったが、やはり僕には幽霊というものに対する予備知識がなさ過ぎる。もちろん、人並みに四谷怪談を始めとする、幽霊の出てくる有名な怪談は一通り知ってはいる。しかし、考えてみれば実体としての幽霊そのものに対する知識が欠けている。

 実体?

 果たして幽霊に実体などというものがあるのだろうか? もし昨日の、本人いわく川島典子が幽霊だとしたら、あれは間違いなく実体がある、ということになる。しかし、考えてみれば彼女が間違いなく幽霊である、という確証はどこにもないのだ。つまり、今のところ、彼女は自称幽霊であるという域を出ない。

 それはこの際置いといて、概念としての幽霊というものを考えてみたところでも、それは僕の中であまりにも漠然としている。そもそも、ここが日本であるということだけで、日本の幽霊という概念に捕らわれること自体が、安易な気もする。外国の幽霊というのはどうなのだろう? ふと思い出してみただけでも、例えば映画なら「ポルターガイスト」とか、城に中世の騎士の幽霊が現れる「キープ」とか、俗っぽいところで言えば「ゴーストバスターズ」とか、そのものずばりの「ゴースト」とか。それに最近で言えばスティーヴン・キングあたりに代表されるホラー小説とかも入れれば枚挙に暇がない。ま、「ゴースト」と言えば確かに足は生えていたが、それ以前にパトリック・スウェイジってのがな……

 とにかく、そこまで幅を広げると切りがないので、とりあえずはオーソドックスに日本の幽霊から調べてみるのがこの場合は妥当な気がした。というか、妥協といった方が正しいか。僕は食後のコーヒーを飲み干しながら、溜息混じりの煙草の煙を吐き出した。

 レジで精算を済ませると、手近なところで青山ブックセンターに飛び込んだ。この大きな本屋には、都合のいいことにそれらしきコーナーがちゃんとある。心霊現象やらなにやら怪しげなものが取り混ぜて並んでいる。どれから読むのが正解か分からないので、それらしいのを片っ端から開いていった。しかし、ひと口に幽霊と言っても、もっとくくりを大きくして霊というカテゴリーにまで広げると、地縛霊やら浮遊霊やら背後霊やら守護霊、死霊、生霊、悪霊まで、それはまあ呆れるほどたくさんの種類がある。これでは日本の幽霊について知るだけでも、古事記の辺りまでさかのぼって、日本の歴史を半分総ざらいするようなものである。僕は気が遠くなった。こいつは切りがない。到底僕の手に負えるものじゃないな、と半分以上諦めかけていたところ、たまたまめくっていた本に「幽霊の足」という章を見つけた。それによると、足がない幽霊というのは中世から近世にかけて、特に有名な怪談が出来上がった江戸時代辺りに定着した型であって、それ以前の時代にはちゃんと足はついていた、とある。能に出てくる幽霊には足があるし、足音を立てたり、下駄を履いた幽霊というのもある。現在の足のない幽霊の図が定番になったのは、江戸時代の画家、円山応挙の描いた絵の影響が大きい。なるほど。これは収穫である。幽霊には足があってもちっともおかしくはないのだ。

 そこで本を閉じて、ふと川島典子のことを考えた。なにかたいそうな発見をした気がしていたが、考えてみれば、彼女が幽霊であってもおかしくない、ということが分かっただけではないか。何が収穫なものか。やれやれ。僕は溜息をひとつついた。

 

4.

 

 退社のタイムカードを押して、会社を出ると、雨はまだ止んでいなかった。僕はネクタイをちょっと緩めると、傘を差したままバス停の前に並んでいる人の列の後ろについた。ぼうっとバスが来るのを待っていると、ワイシャツのポケットに突っ込んでいた携帯が鳴った。ディスプレイを見ると、発信元は見知らぬ番号になっていた。僕が出ようとすると、電話は切れた。僕は間違い電話かなと思い、さして気にも留めずに携帯をポケットに戻した。

 渋谷に向かうバスは混んでいた。窮屈な姿勢で吊革に捕まりながら、そういえばコーヒーの豆がもう切れそうなことを思い出した。朝起きたときにコーヒーが切れてることほど情けないものはない。僕は渋谷のスターバックスに寄って豆を買って行くことにした。

 終点の渋谷駅前で降りると、ガードをくぐってスクランブル交差点を渡り、角にあるスターバックスに入った。どこにあるスターバックスもそうだが、飲み物を買う方はやたらと行列が出来ているのだが、豆売り場の方は空いている。まあ、そっちまで行列をなすようでは、店が儲かって仕方がないし、そもそも日本という国はどこの家でもコーヒーを豆からわざわざ淹れるほど欧米化が進んでいないのかもしれない。僕は朝用のフレンチローストと夜用のディカフェを二百グラムずつ買うことにした。レジに差し出すと、スタンプが貯まると豆がもらえるパスポートを忘れてきたことに気づき、店員に言うと、レシートにスタンプを押してくれた。店員が手提げ袋に入れて渡そうとするのを断って、パッケージのまま受け取ってレジから離れると、出口のあたりで鞄に詰め込んだ。

「あれ、スグルじゃないか?」

 僕がコーヒーをようやっと押し込んで鞄を閉じようと下を向いていると、頭上から聞き覚えのある声が聞こえた。

「あれ、宮本、何してんの、こんなところで?」僕が顔を上げて問いかけると、宮本は手に持った袋をちょいと持ち上げて答えた。

「DVD買ったんだ、そこで」

 ここは同じフロアにCDショップがあるのだ。僕は学生時代とちっとも変わらない、膝の擦り切れたジーンズに、長髪を後ろでポニーテールに束ねた、一見すると美少年風の宮本に向かって言った。

「へえ、DVD持ってんだ」

「お前、いまどきDVDでしょ。ビデオなんかかったるいし、画質悪くて見てらんないよ」

「で、何買ったの?」

「いいじゃん、別に」

 そう言うと、宮本はさりげなくごまかした。しかし、その前にちらっと隙間から見えたタイトルは、「風の谷のナウシカ」だった。僕の記憶によれば、確かこいつはレーザーディスクでも同じ奴を持っていたはずだ。まったく、オタクなところは相変わらずだ。

 宮本と僕は同じクラスで、同じサークルに入って同じバンドをやっていた。僕がギターで彼がベースである。宮本が学生時代と見た目も格好も変わらないのは道理で、彼は大学院に進んで今は院生である。一見すると昔の少女漫画に出てくるような美形だったので、バンド時代はやたらとモテた。実家が湘南の方なので、中学のころからサーフィンとかもやってたし、要するにモテる材料は揃っているのだ。ところが人は見かけによらないもので、彼は結構なオタクである。それは特別にアニメだけとかゲームだけとかに限って掘り下げる、といういわゆる一般的なオタクとはちょっと違って、性格がオタクなのである。つまり、自分が興味を持ったものに関しては全てオタクなのだ。例えば、楽器ひとつにしても、シンセサイザーだったら仕組みがどうのこうのとか、プログラムがどうのこうのとか、果ては歴史がどうのこうのとか、とにかくやたら詳しくなるのである。コンピュータに至ってはハッカー並みだ。

 彼は大方のオタクの例に漏れず、説明好きである。とにかくやたら詳しいものだから、それを伝えたくてしょうがないのか、ひとつ質問すると、延々解説を繰り広げる、という癖がある。それが正確かどうかはまた別の問題だ。彼のようなタイプはとにかく、自信満々に話すので、いかにもそれが当然、という風に聞こえるのだが、元を辿ればたまたま雑誌で記事を目にしただけ、なんてこともままある。まあ、それでも知識という点ではいささかでも尊敬に値するものがあるので、タマに夜中にパソコンがトラブったときなど、つい彼に電話して訊いてしまうのだが、彼の解説が延々といつ果てるともなく続くと、いつも途中で電話したことを少々後悔するのが常だった。

 僕はピンと閃いた。もしかしたら、こいつなら幽霊にやたら詳しいかもしれない。なんか幽霊とか、UFOとか、ストーンヘンジとか、キャトルミューティレーションとか、そういう類はいかにも好きそうだ。少なくともうちの会社の連中よりは遥かに可能性がある。そう考えると、僕は声をかけた。

「ねえ、メシ食った?」

 

 僕と宮本は、井の頭通り沿いの地下のアメリカンパブに入った。

 僕はハンバーグを、宮本はジャンバラヤを頼んだ。食べながら昔のバンド仲間の近況とかの世間話をしつつ、僕はいつ話を切り出そうかと考えていた。いきなり全部話しても到底信じてもらえないどころか、ハナで笑われるに決まっている。それにこいつの口の軽さは折り紙付きだ。ここは遠回しに幽霊の情報を仕入れる程度にしておこう。放っておいても余計なことまで説明するタイプだし。

 などということを考えているうちに食べ終わり、僕は食後に出されたアメリカンコーヒーなる、味も匂いもない代物をひと口すすって、宮本と同じジンジャーエールにしとけばよかったと死ぬほど後悔した。店内の音楽がオアシスの「モーニング・グローリー」に変わり、それと同時に宮本の目の色も変わった。

「あ、なっつかしいー。な、最近のオアシスってさ……」

 僕はこれはいかん、また延々と解説が始まるという危険を覚えて、慌てて切り出した。

「あ、宮本、あのさ」宮本は話の腰を折られて妙な顔をしたが、僕は構わず続けた。「お前、幽霊って見たことある?」

「幽霊?」宮本は一瞬きょとんとした表情を浮かべたが、まんざら興味がないわけではなさそうである。「そうだなあ、オレ自身は見たことないけど、そういえば弟が見たことあるって言ってたっけかなあ……」

 宮本が考え込む間に僕はマイルドセブンライトに火を点けた。煙を吸い込みながら、こいつはアテがはずれたかな、と思った。宮本が眉間に皺を寄せているということは、自分の得意のレパートリーではない、ということである。だいたい、彼のようなタイプは、自分が詳しくないことがある、ということ自体が悔しいのだ。

「なんで?」宮本は訊き返した。

「いや、その、知り合いに最近幽霊を見たって奴がいてさ、幽霊ってそもそもどんなものかと」当然僕の答えは歯切れが悪くなる。僕はごまかすように煙をふうと吐き出した。

「そうだなあ」宮本はまた考え込みモードに入ると、ジンジャーエールをごくごくと飲んでいたが、突然、なにか閃いたという調子で言った。「確かうちに帰ればコリン・ウィルソンの本があったから、それになんか書いてあったような気がするな」

「でもそれって海外の話じゃないの?」

「幽霊に国産も輸入もないんじゃないの? 結局は死者の霊ってことだから」

「そうなの?」

「確かその本にポルターガイストのことが書いてあったと思ったんだけど、あれだって結局日本で言う地縛霊と一緒でしょ」

 へえ、と僕が感心してみせると、彼は次第にノッてきたようだ。僕はすかさず訊いてみた。

「幽霊が実体化するなんてことあるのかなあ?」

「うーん、あのさ、エクトプラズムとかアストラル体って知ってる?」

「なにそれ?」

「あのね、よくオーラとかって言うじゃん。あれみたいなもんでさ、こう精神体っていうか、肉体と別に存在しているものなんだ」

「存在してる?」

「うん、昔テレビで見たんだけどね、科学者が実験をしたんだ。もうすぐ息が止まるという患者で、死の直前と死後の体重を量って調べると、何キロか違うんだよ」

「それは減るってこと?」

「当たり前だろ。それで、なんだっけかな、よくある熱分布を調べるようなものがあるじゃん、熱があるところは赤くなるような」僕がなんとなくうなずくと、彼はいつのまにか得意満面になって喋っていた。「あれでビデオ撮影されたんだよ、エクトプラズムが」

 もうすっかり断定形になっている。僕はいつか、宮本が素人のことを「すじん」と平気な顔で言っていたことを思い出し、話半分に聞いておくことにした。宮本の勢いは止まらない。

「まあ、つまり死によって肉体から離れるなんらかの物質はあるわけだ。だからエクトプラズムはよく幽体離脱とか臨死体験の説明に使われたりするわけなんだけど」そこで少しトーンダウンした。「それが実体化するとなるとなあ…… ま、調べとくよ」

 宮本は任せとけ、とでも言いたげな表情で最後は締めくくった。僕は話が予想以上に長引かなかったことに少々ほっとした。

 帰り際に地上へと向かう階段を上りながら、宮本が後に続く僕に振り返って言った。

「そうだ、インターネットで調べれば結構情報あるんじゃないか?」

「インターネット? あっそうか」

「ま、どっちにしても調べてはみるよ」

 

 僕らは駅前で別れた。雨は随分と小降りになっていた。時計を見ると、もう九時を過ぎていた。僕は地下道に降りて、新玉川線から田園都市線へと名前が変わり、急行の本数が増えてやたらと混み合うようになった各停に乗って帰った。

 駅に着くと、雨は上がっていた。僕は雨上がりの道をとぼとぼと歩きながら、再び昨夜のことを考えていた。

 それにしても、と僕は思った。彼女は何故現れたのだろう? 僕のところに。

 

5.

 

 歩道橋の上から見る246は家路を急ぐ車で下りが混み合っていた。僕はそれを見下ろしながら、これが日常というものだ、と思った。皆仕事に出かけ、そして帰る。その繰り返し。そうして年を取っていく。帰りを待つ家族。曲りなりにも幽霊が帰りを待つ者などいるわけがない。歩道橋の階段を降りて、矢沢川のたもとに来ると、僕はその小さな橋の欄干に肘を付いて、雨で水嵩が増えた川面をぼんやりと眺めた。雨上がりの涼しい風が吹いてくる。僕はさっきからいったい何を考えていたのだろう? いや、正確には朝起きてからずっとだ。だいたい彼女が幽霊であるかどうかはともかく、また来るとは限らないのだ。全てが僕の勘違いであってもおかしくないし、夢であってもおかしくない。むしろその方が普通だ。よしんば現実だとして、彼女がまた現れる保証などどこにもないのだ。それなのに何故僕はこれほどまでにこだわっているのだろう? 彼女がまたね、と言ったからか? もしかしたらそうかもしれない。僕はあの言葉に何かを期待しているのかもしれない。

 何を?

 結局のところ、僕にはなんとなく分かっていた。僕はもう一度会いたいのだ。彼女に。僕は彼女の笑顔が忘れられないのだった。おいおい、スグル、お前は幽霊に恋でもしちまったのか? お笑い種だ。

 そこまで考えて僕はハタと気づいた。

 もしかしたら本物の幽霊に出会ったかもしれないというのに、自分が全然怖がっていない、ということに。

 昨夜からさんざん考えていたわりには、僕はちっともあの、川島典子と名乗る自称幽霊を怖いと思わなかった。それどころか、もう一度会いたい、などと思っている。一体全体、これはどうしたことだろう? もしかしたらこれが一番不思議なことかもしれない。しかし、いまさら改めて怖がろうと思って怖くなるものでもない。いくら考えても怖くないものは怖くないのだ。恐らく僕は単にひとりの女の子として見ている、ということなのかもしれない。しかし、可愛い女の子であるということと、人間か幽霊かということは別の次元の問題だ。いくら見かけが可愛くても、死んだはずの人間が現れたとなれば、普通に考えれば怖いはずである。しかし、いくら考えても怖くなかった。ひとつには、彼女がとても自分に危害を加えそうに見えない、ということもあるのだろう。これはつまり、僕は彼女を幽霊だと思っていないということなのか? しかし、それなら何故幽霊について調べてみようなどと思ったのか。やはり、これも不思議なことではあるが、僕の中では半分以上、本人が言うように彼女を幽霊だと思っているのだ。何故だろう?

 僕は首を傾げながら、橋を離れて歩き始めた。

 川沿いから公団住宅の間を通る私道の暗がりを抜けながら思った。だいたい、幽霊なんてものが現れるなら、こういう川沿いとか、暗がりから現れるものだ。あんな風にピンポーンなんてドアチャイムを鳴らして現れるはずがないのだ。やれやれ、僕はどうかしてる。確かにどうかしてる。

 僕がうつむきながら人影のない私道を抜けて街灯のある通りへ一歩踏み出そうとすると、公団住宅の角の暗がりから声が聞こえた。

「おかえり」

 僕は飛び上がるほどびっくりした。思わず辺りをきょろきょろ見回した。その声は、公団住宅の角に据えつけられた、藤棚の下に置いてあるベンチから聞こえた。そして、その真っ暗な暗がりから、うっすらと街灯の明かりが灯る通りに立ち尽くしていた僕の前に、川島典子が現れた。例の笑顔を浮かべて。

「お、脅かすなよ」

 僕が思わず一歩あとずさって言うと、彼女は「へへ、驚いた?」と無邪気に笑いながら、後ろに両手を組んで、スキップするようにぴょん、とひとつ跳んだ。

 僕はつい先程まであれほど会いたいだのなんだのと思っていたことなどどこかに行ってしまい、今しがた自分が心底驚いたことに、つまり自分の小心さというものに内心腹を立てていた。僕はぷいと通りの向こうに向き直ると、仏頂面で「まあね」と答えながらすたすたと歩き始めた。

 彼女は両手を後ろに組んだまま、やっぱりスキップするように後をついてきた。

「ねえ、なに怒ってんの?」

「別に」僕は前を向いて歩きながら答えた。

 彼女はふーん、と言いながら、人通りのない道を、右へ左へスキップしながらついてくる。僕は彼女がステップを踏むたびに通りに足音が響くのに気づき、やっぱりこれは夢なんかじゃない、と思った。それに、彼女には質量がある、などと妙に科学的な分析までアタマに浮かんだ。僕はハタと足を止めて彼女の方を振り向いた。彼女は驚いたように立ち止まると、肩をちょっとすくめた。僕は彼女に尋ねた。

「どこ行くの?」

「スグルんち」彼女は当然でしょ、という顔をした。

「なんで?」そう僕が問いかけると、彼女はひとつステップを踏んで僕に近寄ると、僕の顔を覗き込むようにして言った。

「行きたいから」

「あっそう」この場合、僕にはこう答えるしかなかった。さらに、なんで? と訊き始めると、永遠に終わらないような気がしたから。それに、街灯に照らされた彼女を改めて見ているうちに、先程覚えた自分に対する苛立ちはもう収まっていた。

 僕がまた前を向いて歩き始めると、彼女は僕の腕を取って並んで歩き始めた。歩きながら、彼女は小首を傾げて僕に尋ねてきた。

「ねえ、会いたかった?」

「どうかな」本当を言えば、また会えたことが嬉しかった。一緒にスキップを踏みたいくらいに。僕はそれが顔に出ないように、眉をちょっとひそめて答えた。

「嘘吐き」

 彼女はそう言うと、悪戯っぽい笑みを浮かべながら、僕の袖をぎゅっとつかんだ。僕は内心、彼女には僕の考えていることが分かるのだろうか、と不思議に思った。それにしても、と僕は思った。何故僕はまた会えたことがこれほど嬉しいのだろう。それに、やっぱりこうしてみると怖くない。全然怖くない。

 僕の腕を通して伝わってくる彼女の感触は暖かかった。けして冷たくはなかった。

 

 僕が鍵を回して部屋のドアを開けると、彼女は「ただいまー」と言いながら玄関にスニーカーを脱ぎ捨てて部屋に上がり、まるでそこにあるのが分かっているかのように部屋の電気のスイッチを入れた。僕はそれにちょっと唖然としながら、ドアを閉めて靴を脱いだ。

「なにがただいまだよ、お前んちか、ここは」

 僕がそう呟くと、彼女は振り向いて、「そうだよ」と笑いながら答えて、さっさとリビングに入っていった。僕はやれやれ、と呟きながら、鞄を開けて買ってきたコーヒーの豆を保存容器に移した。薬缶を火にかけて、ミルに豆を入れながら、コーヒー飲む? と訊いた。隣の部屋から、うん、という元気のいい声が聞こえてきた。なんか昨日と同じ会話をしているような気もするな、と思ったが、考えてみれば僕は帰ったら必ずコーヒーを淹れて飲む人間なのだった。

 出来上がったコーヒーを持って行くと、彼女は昨日と変わらずソファに座っていた。違うところはと言えば、今日はあぐらをかいている、ということである。つまり、今日はスカートじゃなくてジーンズを穿いている、ということだ。幽霊っていつも同じ格好じゃないのか? 幽霊も着替えるのか? 

 僕がそんなことを一瞬考えると、彼女は「なんか言った?」と訊いてきた。僕は思わずどきっとしたが、大方考えながら口までぶつぶつ動いていたんだろう、と思い直した。

「別に。へいおまち」

 彼女にコーヒーを手渡すと、彼女は「サンキュ」と嬉しそうに言った。

 僕は例によって床のクッションにあぐらをかいた。そして、コーヒーをひと口飲むと、今日こそは煙に巻かれないぞ、と決意を固めた。なんだかんだ言って、周りや本から情報を仕入れるよりは、本人に訊いてみるのが一番手っ取り早い。

 僕は決意も新たに、煙草を一本くわえると、彼女に声をかけた。

「なあ」彼女は、ん、という具合にちょっと眉を上げると、例の笑顔を浮かべた。「あのさ、幽霊ってことはさ、その、つまり、死んでるわけだろ?」

「そうだよ」

「いつ死んだの?」

 川島典子は天井を少し見つめながら答えた。「えーと、あれは四月かな」

「今年の?」

「そうだよ」

「ってことは、まだ三ヶ月も経ってないじゃん」

「そうだね」そう答えて、彼女は手にしたマグカップのコーヒーをひと口すすると、死にたてのほやほやだから活きがいいのよ、と訳の分からないことを言った。

 煙草に火を点けながら、笑えないんだけど、その冗談、と僕が言うと、彼女は、だってホントだもん、と口を尖らせた。

 僕は仏頂面をして煙を吐き出すと、どうも調子が狂っちゃうな、と思った。こうあっさりとわたしは死んでます、と言われると、はいそうですか、と思わざるを得ない。幽霊だから人間とは勝手が違うのか。僕は質問の矛先を変えてみることにした。

「そのなんだ、なんで死んだの?」

「それってどうやって、って意味、それともどうして、って意味?」

「両方」

「睡眠薬を飲んだのよ」

「ってことは自殺したの?」

「そう」

「なんで?」

「だって、首なんか吊ったら死体がみっともないことになるし、それにわたし、リスカってのも嫌いなのよね、なんかファーストフードみたいで」

「なにそのリスカって?」

「知らないの? リストカット。手首を切る奴よ」

「ああ」僕は煙草を灰皿に押し付けながら、妙に納得した声を出した。「あれをリスカなんて言うのか。なんかケンタとかスタバみたいで嫌だな、確かに」

「でしょ」

 彼女は得意げに答えた。僕はなんか質問の方向がずれてるような気もするな、と思ったが、成り行きで質問を続けた。

「それで、どこで飲んだわけ?」

「ここで。わたし、ここに住んでたのよ」

 唖然とする僕を尻目に、彼女はうまそうにコーヒーを飲んだ。

 

6.

 

 これ、と川島典子は頭上に灯る蛍光灯を指差し、わたしが買ったのよ、と言った。僕は思わず、あ、ありがとう、と答えてしまった後で、ようやく合点がいった。彼女がこの部屋の造りに詳しいわけも、この部屋の家賃がやけに安かったわけも。ついでに、あのときの不動産屋の妙に落ち着かない仕草も。

「どうりで」

 僕が思わず呟くと、彼女はえ、何が、と訊き返したが、僕は別に、とごまかした。

 ということは、と僕は考えた。彼女は一種の地縛霊って奴になるのだろうか? 地縛霊、と心の中で想像すると、僕は一瞬、背筋が寒くなるような感じを覚えた。彼女と会って初めて、恐怖らしいものを感じた。しかし、どう考えてもそのおどろおどろしい名称と、目の前にいる、ソファにあぐらをかいて本棚にずらりと並んだ僕のビデオライブラリーを見ながら、あ、これまだ見てないんだ、などと言っている女の子とが結びつかない。

 ビデオライブラリー?

 僕は彼女が本棚に並んだビデオをいちいち取り出しながらタイトルを見ているのを見て、今彼女が見ている順番で行くと、あと三本で裏ビデオのダイジェストに辿り着くことに気がついた。僕は慌てて声をかけた。

「あの、川島さん」

 彼女は面倒くさそうに振り向くと、「テンコでいいって言ってるじゃない」と口を尖らせた。

「じゃその、テンコはいくつなの?」

「三百歳」

 テンコは大真面目な顔をして答えた。僕はまた一瞬寒気を覚えた。

「あ、マジでびびった」彼女は破顔一笑すると、「なわけないじゃん」と言って、しばらく笑い転げた。

「お前なあ」

 僕はマジでむっとしていた。自分がびびったことに腹が立っていた。なにしろ先日、「インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア」という映画を見たばかりだったのだ。吸血鬼も幽霊も似たようなものだ、三百歳だったとしてもおかしくない。

「二十一だよ。ホントはもうすぐ二十二だけど」

「そうか、テンコは年取らないのか」

「うん」テンコは消え入るような声で言うと、ちょっと寂しそうな顔をした。そんな彼女を見るのは初めてだった。だがその表情もすぐに消えて、元の笑顔に戻ると、「ねえ、スグルっていくつ?」と訊いてきた。

「二十四。でももうすぐ二十五になるけど」

「もっと若いかと思った」

「悪かったな。一浪した上に留年しちゃったしな」

「スグルってさ、ほら、ブラッド・ピットに似てるよね」

「オレあんなに背が高くないぞ」

「それに竹之内豊にも似てる」

「あんなに背が低くないぞ」

「せっかく誉めてるのに、素直じゃないな」

「それにオレは不精髭生やしてない」

「タイプなんだ、わたし」テンコはそういうとにこっと笑った。

 僕は思わずちょっと赤面してしまった。

「あ、赤くなった、かーわいいー」

 僕は間が持たずにマイルドセブンライトをもう一本くわえて火を点けると、せわしなく吸った。これはもしかしてからかわれているのか? それにいつのまにか、また相手のペースに乗せられて煙に巻かれているような気がする。とにかく話題を変えることにした。

「あのさ、ってことは学生?」

「そうだよ。っていうか、そうだった」

「どこの大学?」

「上智」

「何学科?」

「当ててみて」

「文学部哲学科」

「すごーい、何で分かったの?」

「理屈っぽいから」

 僕がそう言うと、テンコはほっぺたを膨らませて膨れっ面をしてみせた。

「スグルはどこの大学だったの?」

「秘密」

「あ、もしかしてわたしより偏差値低いとこだったんだ」

 図星だった。僕がむっとして黙っていると、テンコは矢継ぎ早に質問を浴びせてきた。

「学科は?」

「仏文」

「へー、なんで?」

「女の子が多そうだったから」

「すけべ」

 僕は口をへの字にした後、煙を盛大に撒き散らした。

「ねえ、スグルって彼女いないの?」

「いないよ」

「なんで? モテそうなのに」

「いないものはいないんだ」

 僕は仏頂面をした。僕に彼女がいないのは、僕なりの事情があってのことだ。それはあまり人に自慢できるような事情ではないし、ましてや幽霊に説明するまでのことはない。僕は憤懣やる方ない、といったことを表すように、鼻から煙を吐き出した。ところがテンコはそんなことはお構いなしに突っ込んでくる。

「まあ、じゃなけりゃ、部屋がこんなに散らかってたり、本棚にエロビデオ置いてたりしないよね」

 僕はまた赤面してしまった。なんとか反撃しなければ。

「お前さあ、黙ってりゃ結構可愛いのに」

 突然、テンコは真顔になると押し黙った。僕はバツが悪くなり、煙草を吸っては煙を吐き出した。ちらっとテンコを見ると、まだ真顔で押し黙っている。僕はとうとう我慢できなくなって言った。

「なにもホントに黙ることはないだろ?」

 僕がそう言った途端に、テンコはぱっと花が咲いたような笑みを浮かべると、「ね、ね、可愛かった、ね?」と身を乗り出した。

 僕が渋々、うん、と答えると、へへ、とホントに嬉しそうな顔をした。困ったことに、ホントに可愛かった。僕は胸がきゅんとするのを覚えて、慌ててこいつは幽霊なんだ、と必死で自分に言い聞かせた。この子は生きていないのだ、と。しかし、目の前に実際彼女が微笑んでいるのを見ると、どうしてもそれが信じられなかった。そう考え始めると、帰る道すがら、彼女のことを幽霊だと半分以上信じていたことも怪しくなってくる。

「なあ、テンコ」

「なに?」

「真面目な話さ、お前ホントに幽霊なの?」

「うん」

「でもどうやってそれ、信じたらいいんだよ」

 テンコはしばらく上を向いて考えると、じゃ、今度なんか考えてくる、と言った。それから急に時計を見て、あ、帰んなきゃ、と立ち上がった。すたすたと玄関に向かう彼女を追いながら腕時計を見ると、十二時ちょっと前になっていた。やれやれまたか、お前はシンデレラか、と背中に向かって心の中で呟いた。それからふと考えた。ここはひとつ、どこに帰っていくのかついていって確かめる、という手があるな。

 テンコはさっさと玄関でスニーカーを履くと、じゃまたね、と言った。僕は慌てて、送ってくよ、と言うと、ありがと、でもいいよ、と言って急に背伸びをすると、僕の頬にキスをした。そしてあっという間に部屋を出ると、目の前でドアがばたんと閉まった。

 そしてまた僕はひとりぽつんと取り残された。

 

7.

 

 僕はたぶん、正確には十五秒から三十秒のあいだ、ぼうっと玄関先に立ち尽くしていた。それからハタと気づいて、スニーカーを突っ掛けると、ドアを開けて通路に飛び出した。手すりから身を乗り出して、テンコの姿を探したが、彼女の姿は見渡す限り、どこにもなかった。僕は「テンコ」と声に出して呼んでみた。返事はなかった。もう一度声を大きくして呼んでみようと思ったが、時間を考えて止めた。こういうところが僕のA型たるところである。そしてそれが自分の嫌いなところでもあるのだ。

 僕は手すりに両肘を付いて、ポケットからマイルドセブンライトを取り出して吸った。高校生ぐらいの若いカップルが、自転車に二人乗りして笑いながら通り過ぎた。僕はいったい何をしているのだろう、と考えた。煙草を吸い終わると、足元のコンクリートの通路で踏み消して、吸殻を外に蹴り飛ばした。

 

 部屋に戻ると、リビングのテーブルの上に取り残された、二つのマグカップを流しのシンクに置いた。二つ。確かに二つある。洗おうかと思ったが、明日の朝にすることにした。朝になっても二つあることが確かめられるように。

 流しの前に突っ立って、そんなことを考えている自分に気がついて、僕は両手で頭をぼりぼりと掻いた。ホントに、オレはいったい何をやっているんだろう?

 自分がまだ会社帰りのネクタイをした格好のままだと気づき、その場で全部脱ぎ捨てると、風呂場に入って熱いシャワーを浴びた。目をつむって頭からシャワーを浴び続けた。そして考えた。あの頬に感じた唇の感触は本物だった。湿度も、触感も。それはけして冷たいゼリーのようなものではなく、血の通った人間のものだった。確かに。僕は頭からシャワーを浴びながら、ぶるぶるっと頭を振った。

 バスタオルで頭を拭きながら風呂場から出ると、僕はそこでようやく留守電のランプが点滅していることに気づいた。僕は全身をバスタオルで拭いながら、ファックス兼用の留守電のスイッチを押した。用件は一件です、という無味乾燥な機械の女性の声が告げると、ピッという発信音の後にメッセージが聞こえてきた。

―― もしもし、アサコです。……またかけます。

 機械の声がメッセージを九時半に受けたことを伝えていた。僕はバスタオルで頭を文字通り掻き毟りながら、叫び出したい衝動をどうにかこらえた。

 

 実を言うと、僕は今年のアタマからツイていると思っていたわけではない。ツイていると思い始めたのは、初めての会社に入って無我夢中で二ヶ月が過ぎて、ここに引っ越してからのことである。むしろ、会社に通い始める前の三月ぐらいまでの僕は、世界で一番ツイていない、と思っていた。

 その第一の原因がアサコである。

 ちなみに第二の原因は第一志望の大手出版社をすべて落ちたことだ。

 僕と土田麻子は大学の同級生だ。学部は違うが、同じ軽音楽サークルに所属していた。彼女が入ってきたのは二年になってからだった。友達に連れられてサークルにやってきた彼女を初めて見たときは、信じられないくらいにキレイだ、と思った。放っておけば僕が彼女に惹かれてしまうのは目に見えていた。だから彼女のことはなるべく見ないようにしていた。高嶺の花なのだと。そんなわけなので、どういうわけか彼女が僕のバンドのボーカルをやることになっても、なるべく女性として見ることを避けていた。小心者の僕は、彼女に恋して傷つくことを恐れていた。ベースの宮本同様、同じバンド仲間としてだけ見るようにしていた。

 それがある日、当時住んでいた高円寺のボロアパートでいつものようにぼうっとジェフ・ベックかなんかを聴いていたところに、アサコが泣きながら電話をかけてきた。スグルのことが好きなの、と。僕は腰が抜けるほど驚いた。電話を切った後で、僕は信じてもいない神様に何度も何度も感謝した。世界で一番ツイていると思った。

 そんなことで、僕はサークルで一番の美人と、三年になってから付き合うことになったのである。僕らは正確に言うと、二年三ヶ月ほど付き合った。途中で、僕は留年して五年目の学生生活を送ることになり、彼女は一足先に卒業してレコード会社に就職した。つまり、それが去年の話だ。彼女が会社に勤め始めてから僕らのリズムはおかしくなった。まず、彼女がレコード会社の宣伝という、傍から見るとやたらと派手な仕事を始めたことも原因のひとつだ。彼女は生き生きとして、忙しそうだった。学生のときから比べると、会える時間も少なくなったが、タマに会うと彼女は目を輝かせて、本当に楽しそうに仕事の話をするのだった。僕は内心それが羨ましくてしょうがなかった。自分が酷く子供に見えた。だからある日、アサコが酷く真面目な顔で、あなたわたしと結婚する気があるの、と問い詰めてきたときに僕は即答出来なかった。本心はこのまま行けば当然結婚するものと思っていたし、アサコが僕には過ぎた女であることも分かっていた。でも、僕は、うーん、分からない、という曖昧な答えしか出来なかった。そのときの僕は彼女に対して多大なコンプレックスを抱いていた。ひとつには僕が留年する原因となった、僕の就職の失敗がある。僕は第一志望の大手出版社にことごとく落とされてしまった。いまだに学生の身分である。かたや、彼女は巷で大ヒットを飛ばしている新人アーティストの担当宣伝ウーマンとしてバリバリに仕事をこなしている。そのときの僕は男としてのプライドが即答を拒んでいた。

 僕の答えを聞いて、彼女は酷く落胆したように見えた。しかし、プライドだのコンプレックスだのという言葉がアタマに飛び交っていた僕には、それ以上何も言えなかった。そのころから僕らはぎくしゃくし始めた。彼女の話によると、彼女はますます忙しくなり、会える時間は極端に少なくなった。そしてちょうど一年前の今ごろ、彼女が僕に告白した。会社の宣伝部の先輩とホテルに行ってしまったと。僕はそれを聞いて愕然とした。高校のころからバンドを始めた僕は、それまで自分で言うのもヘンだが、結構モテていた。しかし、アサコのような激しい告白をされたことはなかった。しかも、アサコのようなキレイな子から。だから、僕はいつのまにか、アサコだけは僕を裏切ることはけしてない、と勝手に思い込んでいた。それだけに僕のショックは大きかった。アサコは泣きながらゴメンと謝った。僕は許そうと必死で努力をした。一度出た別れ話も、お互いにもう一度やり直そうと話をした。しかし、結局はアサコの方から離れて行った。アサコは僕が嫌いだと言った。僕の目が嫌いなのだと言った。僕はなかなかそれが信じられなかった。あんなに激しく泣きながら好きだと言ってくれたアサコが、こんな風に変わるなんて信じられなかった。僕は彼女がきっぱりと僕とはもう会わない、と言い残して去って行ってからも、なかなかそのことが信じられなかった。しかし、年末も近付いたころ、同級生の噂で彼女がその先輩と婚約したことを聞き、彼女は僕の元には帰って来ないのだということをようやく僕は受け入れた。要するに彼女は結婚というものをしたかっただけなのだ。そして僕は極度の人間不信に陥った。しばらくは誰とも付き合う気になれなくなった。現在の僕に彼女がいないのも、この人間不信によるところなのだ。

 こうして、世界一ツイていると思っていた男が、世界一ツイていない男になったわけだ。

 確か宮本の話によると、彼女は先月結婚しているはずである。その彼女がいまさらいったいなんだと言うのだ? しかも、よりによってこんなときに。今となっては、僕にとってアサコは過去の亡霊のようなものだ。より正確に言えばトラウマだ。

 僕はもう一度バスタオルで頭を掻き毟った。

 

 ベッドに入っても、今日もなかなか寝付けなかった。僕は昨日と今日のことをもう一度反芻してみた。妙だ。僕はまるで当たり前のように、幽霊――まあ自称ではあるが――と会って、当たり前のように会話して、おまけにキスまでされた。しかも彼女はここで死んだと言っているのである。改めてそのことを考えると、背筋がぞくっとするような恐怖を覚え、思わずベッドから上半身を起こして薄暗い辺りを見回した。僕はふう、と溜息をひとつつくと、ベッドサイドの電気を点けて、煙草に火を点けた。煙を吐き出しながら、これが当たり前の反応なのだ、と思った。それなのに何故僕は彼女に対して恐怖を覚えないのだ? しかも、彼女を目の前にすると、彼女の言っていることが全て本当のことに思える。幽霊だということも、それほど不思議にも思えない。いったい僕はどうしてしまったのだろう? やっぱり僕は幻覚でも見ているのだろうか? だとしたらキッチンのシンクにある二つのマグカップはどういうことだ? 今朝みた口紅の跡は?

 僕のアタマは混乱する一方で、目はらんらんと冴える一方だ。僕は寝るのを諦めてベッドから起き上がると、煙草をくわえたままサッシを開けてベランダに出た。心地よい風が吹いてくる。手すりに両肘をついて、煙草をゆっくりとふかした。見下ろすと、眼下の駐車場には一日の仕事を終えた個人タクシーの車が帰ってきたところだった。何事もなく一日が終わったと言わんばかりに。遠くで環八を走る車の音が微かに聞こえる。どこかで犬の声がする。何もかもいつもと変わらない。普段と同じ静かな夜だ。僕は煙草を深く吸い込むと、煙を夜気に向かって静かに吐き出した。煙は微かに吹いてくる風に押し流されて、消えて行った。短くなった煙草を手すりに押し付けて消すと、吸殻を放り投げた。吸殻は放物線を描きながら駐車場の屋根でわずかにバウンドした。僕はもう一度溜息をついた。僕はいったいどうしたというのだろう? 気でも狂ってしまったのだろうか? 真面目な話、一度医者に診てもらった方がいいのかもしれない。知らぬ間にストレスが溜まっているのかもしれない。遅れてやってきた五月病の一種なのかもしれない。それともアサコから受けた傷が今ごろ幻覚となって現れてきたのかもしれない。とにかく僕は変だ。僕はどうかしてる。それは間違いない。僕は何度目かの溜息をつきながら、しばらく夜空を見上げていた。

 

8.

 

 翌朝の僕はきっと酷い顔をしていたに違いない。僕はすっかり混乱したままだった。頭が全く整理がつかないまま、明け方にようやく眠ったせいで、今日も酷い寝不足だ。

 ぼうっとした頭で、シンクのマグカップを洗った。やっぱり二つあった。だが、それがいったいどうしたと言うのだ? 

 僕は歯を磨きながらアサコの留守電を思い出した。それは今となっては傷口から入り込む雑菌のようなもので、頭痛の種にしかならない。僕の頭は一度にそういくつも処理出来るほど高性能には出来ていない。とりあえず、アサコのことは頭から追い出すことにした。

 いつものトーストとコーヒーの朝食を摂りながら、このままじゃダメだ、と思った。そのうち寝不足で参ってしまう。もし本当に幻覚を見ているとすると、と考えて、次第に狂っていく自分を想像してぞっとした。とにかく一度医者に相談してみよう。トーストを齧りながら、電話帳を引っ張り出してきて、病院の「神経科・精神科」というページを開いた。一番近いところ、と探してみると、駅前にあった。受話器を取って電話すると、予約したいのですが、と言った。一週間後の六時なら取れますという答えが帰ってきた。僕はそれでお願いします、と言って名前を告げて電話を切った。システム手帳に予定を書き込みながら、こういう医者も案外混んでるものだな、と思った。

 相変わらず混み合う田園都市線の吊革につかまりながら、窓に映る自分の顔を見た。まるでお通夜にでも出るような顔だ。おまけに右側の髪の毛が立っている。僕はその寝癖を撫で付けながら、昨夜のキスの感触を思い出した。それは確かに甘酸っぱかった。

 

 会社は相変わらずガラガラだった。僕はおはようと言う気力もなく、十五分遅れのタイムカードを押すと、椅子に腰を落として、既に一日を終えたような溜息をついた。僕が宙を見つめてぼうっとしていると、隣の香取さんが声をかけてきた。

「安川さん、どうかしたんですか?」

「え、なにが?」

「まるで幽霊でも見て来たような顔してますよ」

「えっ?」

 僕は心底どきっとした。そして、どうして分かったの? という言葉を飲み込んだ。

 

 とにかく、仕事をやる気分ではなかった。僕はなんとなく昼過ぎまで会社で時間をつぶし、それからホワイトボードに行き先を適当にいくつか書いて、出かけます、と香取さんに声をかけた。

「いってらっしゃい。戻りは?」

「電話する」

 これは要するに戻らずに直帰する、という意味の一種の暗号のようなものである。香取さんは暗黙の了解で、というか内心は恐らくまたかと思っているのであろうが、分かりました、といつものように答えた。

 さぼることに決めたはいいが、どこか行くアテがあるわけでもない。外に出ると、昨日とは打って変わった抜けるような天気で、むっとするほど暑かった。ひとまずバスに乗って渋谷へと出た。駅前で降りると、とにかく冷房の効いた涼しいところで昼食を摂ることにした。

 僕は汗ばむような陽気の中をスクランブル交差点を渡って、道玄坂に出た。坂の途中の二階にある喫茶店に入った。この店は案外と空いているし、渋谷のど真ん中にある割には静かで隠れ家っぽい店なので、さぼるときによく使っている。考え事をするにはもってこいの場所だ。

 僕は店の一番奥の席に座ると、クラブハウスサンドウイッチとコーヒーを頼み、氷の浮かんだ水をひと口飲んで、ネクタイを緩めた。程なくサンドウイッチとコーヒーが届けられ、僕はそれを食べながら、何から考えるべきかを考えた。

 自分がおかしいかどうかは自分では判断できない。昨日の朝見たマグカップに付いた口紅の跡を思い浮かべながら、この際、幻覚ではない、という前提で考えることにしよう。

 結局、昨日と同じことを考えてしまう。果たして本当にテンコは幽霊なのか?

 僕はサンドウイッチの間から皿に落ちたトマトをフォークで拾って、口の中に放り込みながら考えた。

1.テンコが幽霊だという確証はない。

 それから、ピクルスを食べ、コーヒーをひと口すすって考えた。

2.テンコが幽霊ではないという確証はない。

 僕はコーヒーをもうひと口すすって、煙草に火を点けた。ダメだ。これでは一向に先に進まない。何か大前提が必要だ。順番が必要だ。

 ここはひとまず、テンコの言っていることが本当である、という前提で考えることにしよう。

 とすると、この場合の核心は、テンコが果たして本当に死んでいるかどうか、ということになる。僕は頬杖をついて、煙を吐き出した。まずは、本当に川島典子という人間が存在していたかどうか。それから確かめてみることにしよう。おお、なかなかに論理的な順番のような気がする。僕は一歩前進したような気がして、ひとりほくそえんだ。

 しかし、よく考えてみると、まだ何も解決していないのだった。

 方法が必要だ。新聞はどうだろう? だいたい、日本では一年間にどれだけの人間が自殺しているのだろう? ふと思い出してみただけでも、小学校のときに近所のお爺さんがひとり、中学のときには同じ町に住む叔母がひとり、去年大学の同級生がひとり。僕の周りだけでもこれだけの人間が自殺して、いずれの場合も確か新聞には載らなかったように思う。とすると、新聞を調べてみてもあまりアテにはならない。一番確実なのは上智大学に行って、学生部に訊いてみることだが、そんなことを外部の人間に簡単に教えるものだろうか? 待てよ、テンコの言う通り、彼女が今年二十二になる予定で、四月に自殺したとすると、今生きていたら四年生ということになる。要するに上智の哲学科の四年生を見つけて訊けばいいのだ。どうしたらいいだろう? 確か、サークルには他の学校から来ている奴もいたな。大学に戻って、サークルの後輩の中に上智の四年生がいるか訊いてみるという手がある。と、そこまで考えて、宮本を思い出した。あいつに訊いてもらえばいいか。しかし、考えてみるとなんて説明すればいいのだろう。川島典子という学生が果たして本当に存在したかどうか。そんなことをどうやって訊けばいいのだ。それに、だいたいにおいて、宮本が絡むと話がややこしくなる傾向にある。

 次第に面倒に思えてきた。もう少し手っ取り早い方法はないものか。

 僕はコーヒーを飲んで、煙草をフィルター近くまで吸った。そうか、不動産屋だ。あのおっさんに訊いてみるのが一番手っ取り早い。少々ダイレクト過ぎる気もしないではないし、もし間違いだったら結構みっともない話ではあるが、この際、旅の恥は掻き捨てだ。いや、旅はしてないから、喉元過ぎれば熱さ忘れるだ。いずれにしろ、ちょっと例えがずれてるかもしれないが、この場合、それはよしとしよう。とにかく、答えが一番早いのはそれだ。

 今日は寝不足のクセになかなか冴えてるぞ、と思っていると、携帯が鳴った。嫌なタイミングだ。昼間の携帯っていう奴はどうしても馴染めない。こういう仕事をさぼっているときはなおさらだ。せっかくいい思いつきが浮かんだというのに、仕事の電話だったらどうしよう。僕は憂鬱な顔でワイシャツのポケットから携帯を取り出した。ディスプレイを見ると、見覚えのない番号が並んでいる。少なくとも会社からの呼び出しではなさそうだ。ほっとしかけたが、そういえば昨日も知らない番号の着信があって、そのまま切れたことを思い出し、切れるのを待った。五回。六回。切れない。嫌な予感がする。僕は通話ボタンを押した。

「もしもし」

「もしもし、スグル? アサコ」

 嫌な予感というものはどうしてこう的中するのだろう?

「久しぶり」

「昨日留守電に入れちゃったんだけど」

 いつもの湿度の高いアサコの声だったが、今日は語尾が消え入るようで、まるで涙声に聞こえた。もしかしたら本当に泣いているのかもしれない。

「聞いたよ。どうかした?」

「会いたいの」

 彼女の声の湿度はさらに増して、僕の気分もそれにつれて重くなっていった。気のせいか手にした携帯まで湿度で重さを増したように感じる。僕は内心溜息をつきながら言った。

「ねえ」

「なに?」

「結婚したって聞いたんだけど」

「したわよ」

「だったら今ごろ……」

「離婚したの」

 僕は絶句した。今や、彼女の声は明らかに涙声になっていた。

「もしもし、スグル、聞いてるの?」

「あ、ああ」

「明日会えない?」

「いいよ」僕は断る理由がすぐには思いつかなかった。

「何時ごろなら大丈夫?」

「合わせるよ」僕はもうどうにでもなれ、と思っていた。

「じゃあ、三時に青山のスパイラルカフェ」

「分かった」

「待ってる」

「じゃあ」

 僕は通話ボタンを切ると、深く溜息をついた。どうしてこうなるのだろう? 話がややこしくなる一方だ。元々僕は頼まれると嫌とは言えない性格だ。いまさらアサコに会ってどうなるというのだ。もしかしたらよりを戻したいと言ってくるかもしれないアサコのことを考えて、一向にそのことに魅力を覚えない自分に気がついた。確かにアサコはキレイだ。僕に最初にフェラチオをしてくれたのも彼女だ。しかし彼女は僕を裏切った。彼女は結婚というものをしたかっただけなのだ。

 そこまで考えて、それだけが理由とは思えなかった。僕のアタマは違うことで一杯なのだった。昨夜のキスの感触がまたアタマに甦った。胸が詰まるような思いがした。

3.僕はテンコに恋しかけているのかもしれない。

 結局のところ、それが一番厄介なことだった。

 

9.

 

 僕は喫茶店を出ると、プライムの前の信号が変わるのを待ちながら、腕時計を見た。まだ三時を回ったばかりだった。一応、会社に電話を入れることにした。携帯で電話すると香取さんが出て、特に連絡事項はないとのことだった。こういう生真面目なところがA型なんだよな、と僕は思った。他の連中ならどうせ携帯持ってるから、と半日は連絡を平気で入れないところだ。いずれにしろ、と僕は思った。不動産屋に寄るにしても、まだ時間に余裕はある。気分転換にちょっとHMVに寄ってCDでも見ていこう。

 なんとなくそんな風に思って、プライムを抜けて東急本店通りに出ることにした。信号を渡って、プライムの中に入ると、一階は工事中だった。もぬけの空となったテナントの間を抜けると、占いのブースが立ち並ぶ通路だけは相変わらずだった。まだ平日の昼間だけあって、客はほとんどいない。すたすたとそこを通り抜けようとすると、最後の、そこだけぽつんと離れてあるブースから声がかかった。

「そこのあなた」

 へ、と僕は振り向いた。見ると、数珠やら何やらをこれでもかと身に付けた、派手な修験者のような格好をしたおばさんが、陰気臭い顔でこちらを睨んでいた。

「な、なんですか?」眼光の鋭さに気圧されながら僕が訊き返すと、おばさんは怖い顔で睨みながら、ドスの効いた声で言った。

「気をつけなさい。悪霊が憑きかけておる。それに死相も出ておる。だが、心配することはない。今ならまだ間に合う。気をつけることじゃ」

 おばさんは目を見開いて大袈裟なイントネーションで言った。僕は易だのなんだのと字が一杯並んでいる中に、除霊という文字を見つけてぞっとした。何より、死相というのは穏やかじゃない。僕はおばさんのブースの「四方堂雅子」という名前を見て、シホードーマサコと読むのだろうか、と考えながら、相変わらず睨みつけるおばさんに魅入られたように言った。

「あの、いくらですか?」

「今回はサービスじゃ」シホードーマサコは搾り出すような声で言った。

「どうも」

 僕が立ち去ろうとすると、シホードーマサコは僕の背中に追い討ちをかけた。

「それからもうひとつ、女難の相も出ておる。気をつけなさい」

 僕はカンベンしてくれよ、と思いながら、振り返らずに逃げるようにその場を後にした。

 

 田園都市線の吊革に捕まりながら、悪霊ってなんだよ、悪霊って、と思っていた。テンコが悪霊だって言うのか? だったらオレは悪霊のファンクラブに入ってもいいぞ。それに初対面の人間に死相はないだろう。癌の宣告だって、医者は家族と相談してもう少し慎重にやるぞ。僕は心の中で毒づきながら、それでもシホードーマサコの異様に説得力のある眼光がアタマの片隅に引っ掛かって離れなかった。

 駅に着くと、僕は真っ直ぐ不動産屋を目指した。あの陰気な顔をしたおっさんの名前はなんて言ったっけ? 家中引っくり返せばどこかに名刺があるはずだが、確か名前まで陰気な名前だったような気がする。

 さすがに駅から三十秒だけあって、あっという間に着いた。表から覗いてみると、カウンターの向こうに例の葬儀屋のような顔をしたオヤジがいた。僕は安堵の息を洩らすと、ガラス戸をがらがらと開けた。

 いらっしゃいませ、とカウンターに座っている女の子が笑みを浮かべながら声をかけてきた。例のオヤジはひとつ奥の机で下を向いてなにやらごそごそとやっている。

「あの」

「はい?」女の子は満面に営業用の笑みを浮かべた。

「あの人」僕は女の子に顔を近付けると、オヤジを指差して、声を落として言った。「なんて言いましたっけ?」

「黒原ですか?」

「あ、そうだ、クロハラさん、黒原さんとお話が」

「ちょっとお待ち下さい」

 そう答えると、女の子は黒原のところに行って、耳打ちした。黒原は顔を上げると眼鏡を持ち上げて怪訝そうに僕の方を見た。どうやらまだひと月も経っていないというのに、もう僕の顔を忘れているらしい。

 女の子は自分の席に戻ると、カウンターの前にある応接セットを指差して、そちらにおかけになってください、と言った。僕はどうも、とだけ答えて合成皮革のソファに腰掛けた。

 のろのろとカウンターを回って、黒原は応接セットまで来て僕の向かいに座ると、禿あがった額に皺を寄せながら探るような調子で言った。

「あの、失礼ですが、どちら様で……」

「安川です。万寿ハイツの」

 僕がそう答えると、黒原は膝を叩いて、あ、ああ、ああ、と言いながら一応笑顔らしきものを作ってみせた。

「安川さん。二〇二号室の。これは失礼しました」

 カウンターの女の子がどうぞと言ってお茶をふたつ、テーブルの上に置いた。

 黒原はそのお茶を持ってすすりながら、顔だけは妙な笑顔を作りながら探るような上目づかいで言った。

「それで、今日はどういう御用件で?」

 僕は腹を括ろうとお茶をぐいっと飲んだ。飲んでから酷く熱いことに気がついたが、もう遅かった。僕はあちち、と叫び出したいのを顔に出さないようにこらえながら、それでも目尻の端にちょっと涙が浮いてしまったが、きっぱりと言った。

「単刀直入にお訊きします」

「は?」黒原は呆けたように口を開けた。

「あの部屋に僕の前に住んでいた方について」

 僕が睨みつけるように言うと、黒原は口を開けた形のまましばらく固まっていた。僕は構わずたたみかけた。

「川島典子さんについてです」

「ど、どうしてそれを」黒原は目を見開いてようやく言葉を発した。

 ビンゴ。

「自殺があったんですね。あの部屋」

 黒原は禿あがった皺だらけの額から汗をたらりと流すと、ポケットからハンカチを取り出して慌しく拭いた。

「それはですね、その」

「あったんですね」

「はい、いや、その、いいえ、あの部屋はお客様にお渡しする前にきちんとリフォームも済ませてですね」

 しどろもどろになって答える黒原を遮るように僕は手にしたお茶をどん、とテーブルに置いてもう一度言った。

「あったんですね? 自殺」

 黒原はまた五秒ほど固まると、観念したように頭を垂れて、はい、と言った。それから突然テーブルに頭を擦らんばかりにしながら、慌てて口を開いた。

「いやはや、まことにもって申し訳ございません。ただ、わたくしどもとしてはですね、わざわざお客様にお知らせすることもないだろうと、その、なるべくご気分よくですね、引っ越していただければと、それにお家賃の方も」

 僕は機関銃のようにしゃべり始めた黒原を手で制して言った。

「いや、いいんです。それは」僕がそう言うと、黒原は頭を上げてほっとしたような表情を浮かべた。そこで僕はちょっと閃いた。黒原に向かって身を乗り出すと、黒原は思わず顎を引いた。僕はその姿勢のまま声を落とすと、黒原の目を見ながら言った。

「実はお願いがあるんです」

「は?」

「川島さんの、その、ご家族の連絡先を教えていただきたいのです」

「そ、それはまたどうして」

 僕は一瞬考えた。理由までは考えていなかった。五秒ほどアタマをフル回転させて、適当な口実を言った。

「忘れ物があったのです。川島さんの」

 そう言いながら僕はひとまず、まずまずの言い訳を考え付いたことに内心胸を撫で下ろした。

「あ、そうですか…… おかしいな、ちゃんと全部リフォームしたんだけど」

 黒原がぶつぶつ独り言のように呟き始めたので、これ以上怪しまれないうちにと、僕は自信たっぷりに見えるようにソファの背にもたれると、にっこりと笑った。

「お願いできますね?」

 はい、少々お待ちを、と黒原はソファを立つと、自分の席に戻ってごそごそと書類を探し始めた。僕はふんぞり返ったまま、ようやく冷めたお茶をぐいっと飲むと、煙草に火を点けて、煙と一緒に思いきり安堵の息を吐き出した。

 程なく、黒原は契約書類を開いて持ってきた。

「こちらでございます」

「じゃ、写させていただきます」

 僕は鞄からシステム手帳を取り出すと、保証人の欄に書いてある、彼女の母親らしい名前と住所と電話番号を手早く写し取った。契約者の欄には、確かに「川島典子」と書いてあった。僕は写し終わると、契約書を黒原に戻しながら言った。

「じゃ、どうも、お手数かけました」

 僕が手帳を鞄にしまってソファを立つと、黒原はようやくほっとした表情を浮かべて、どうもいろいろと御迷惑を、と言うようなことをぶつぶつと呟いた。

 僕はさっさとここを出ようとガラス戸に手をかけると、後ろから「あの」と黒原の声が聞こえた。僕が戸に指をかけたまま振り向くと、黒原は近寄ってきて僕に耳打ちした。

「その、じ、自殺の件はどちらからお分かりに」

「それは」僕は早くガラス戸を引いて出て行きたい衝動に駆られながら、そのままの体勢で二秒ほど考えると、答えた。「秘密です」

 僕は口を半分開いて唖然とした表情で佇む黒原を置いて、さっさと不動産屋を後にした。

 

 商店街を早足で歩きながら、胸の動悸が収まるのを待った。そのまま駅ビルへと入ると、一階にある喫茶店に入った。

 席に着いてコーラを頼むと、思い出したように汗が噴き出してきた。僕はそれをハンカチで拭いながら、ネクタイを思いきり緩めて、コップの水をひと息に飲み干した。

 コーラが届き、それをストローで吸うと、ようやく人心地ついた。それからマイルドセブンライトに火を点けて思いきり吸い込むと、ゆっくりと煙を吐き出した。やればできるじゃん、スグル。今回は自分を誉めてやってもいい、と思った。

 僕は鞄からシステム手帳を取り出すと、改めていま書き写したばかりのメモを見た。

 川島佐知子。千葉県佐倉市うんぬん。

 保証人、というからにはまず彼女の母親と考えて間違いないだろう。もしかすると、叔母とか姉妹、ということも考えられるが、常識的に考えれば母親である。とすると、何故保証人が父親じゃないんだろう? 離婚でもしたんだろうか?

 僕はひとまずシステム手帳を閉じて、改めて今日得られたものを考えた。

 川島典子は実在した。そしてやはり自殺していた。

 僕は煙を宙に向かって吐き出しながら、そのことを繰り返し胸の中で呟いてみた。テンコの言っていたことは本当だったのだ。テンコはやはり死んでいた。いや、テンコはやはり生きていた。あれ、どっちなんだろう? 両方か。ややこしいな。とにかく、川島典子はかつて生きていて、そして自殺した。僕の今住んでいるあの部屋で。

 これは何を意味するのか? 

 つまり、テンコは本当に幽霊だってことだ。

 

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