10.
僕は喫茶店から会社の香取さんに電話を入れて何も連絡事項がないことを確かめると、直帰します、と言った。まるで当たり前のように、お疲れさま、という香取さんの声が返ってきた。半日さぼってしまった罪悪感を振り切るように携帯の通話ボタンを切ると、レジで精算を済ませて喫茶店を後にした。
外はそろそろ日が傾きかけていた。帰る途中にあるラーメン屋でネギラーメンを食べた。帰り道を歩きながら、さて、どうやらテンコは本物の幽霊らしいことが分かったが、それでどうすればいいのか、と考えた。
本物の幽霊。
アタマの片隅から、シホードーマサコの悪霊という声が聞こえてきて、僕は頭を振ってそれを追い払った。
幽霊か。
事実がひとつ分かったというのに、何故か謎が深まっただけのような気がした。
部屋に辿り着くと、昼間の暑さで中はむっとするほど温度が上がっていた。僕はエアコンのスイッチを入れると、ジャケットとネクタイを脱ぎ捨てて、リビングのソファに寝転がった。横になったまま、リモコンでテレビのスイッチを入れ、ケーブルテレビのディスカバリーチャンネルに合わせると、象が群れをなして移動するさまをぼうっと眺めた。そのうち、昨夜の睡眠不足もあって、猛烈な睡魔が襲ってきた。いつのまにか、僕はそのまま眠りに落ちていた。
目が覚めると、テレビの画面では中米あたりののどかな風景の中を白人の旅行者がはしゃぎながらドライブしていた。時計を見ると、十一時十五分だった。僕は眠ぼけまなこを擦りながらソファから起きだし、シャワーを浴びた。バスタオルを頭に引っ掛けて、全裸のまま寝室のエアコンから流れ出る冷気に身を委ねた。机の上の目覚まし時計に目をやると、十一時半を過ぎていた。今日は幽霊もお休みか。僕は時計に向かって呟いた。
素っ裸のまま机の前に座り、頭をバスタオルで拭きながら、ノートパソコンのスイッチを入れた。そういえばここ二日あまり、スイッチを入れていなかった。ブライアン・イーノ作曲のスタート音が流れ、ウィンドウズが立ち上がった。ブラウザのアイコンをクリックすると、三日振りにインターネットに繋がった。先日宮本がインターネットならどうとか言っていたのを思い出す。サーチエンジンの検索画面を出すと、「幽霊」と打ち込んで検索ボタンをクリックした。あっという間に検索結果が画面に表示され、右端の総件数を見ると十六万件を越えていた。僕は溜息をひとつ洩らすと、冷蔵庫からオレンジジュースを持ってきて机に戻り、それを飲みながらとりあえず二十件表示されている検索結果を見た。個人のページや、幽霊を扱った映画に関するページが並んでいる。タイトルの下に二行ほど付いている文章のダイジェストを読むと、期待した学術的な解説や分類をしているページは見当たらない。一応二枚目の検索結果もクリックした。ざっと見ると、これもほぼ同じだ。十六万件を二十で割ると、八千。僕はそれ以上先に進むことを断念した。
少し肌寒くなってきたのでエアコンのスイッチを切り、今度はメールソフトを立ち上げた。メールがいくつか届いていた。アダルトサイトを紹介する文字通りのダイレクトメールが一件、今月の料金を知らせるプロバイダからのメールが一件、それと発信者欄もタイトルも空白のメールが一件。こういうのは大概がウイルスだったりする。僕は頭のメールから順に削除していき、最後のメールも削除しようとして思いとどまった。それはウイルスではなかった。ただ一行、書いてあるだけのメールだった。
アサコって誰?
僕は思わず辺りを見回した。自分が無意味な行動を取っていることに気づくと、煙草を一本取り出して火を点けた。ディスプレイに向かって煙を吹きかけながら、声に出して呟いた。幽霊、か。シホードーマサコの「悪霊」という声がアタマの隅から聞こえてきた。僕は改めてじわじわと恐怖を覚えた。
突然、窓をどんどんと叩く音がして、僕は椅子から文字通り飛び上がった。恐る恐る音のする方を見ると、半分開いたカーテンの間から、ベランダに立つテンコが見えた。僕は慌ててバスタオルを腰に巻くと、もう一度改めてベランダを見た。やっぱりそこにはテンコが立っていた。不思議なことに、先程覚えた腰を抜かすほどの恐怖は、テンコの顔を見た途端に消え去り、僕は鍵を開けてサッシを開けた。テンコはTシャツにジーンズという格好で、腕を組んで頬を膨らませながらこちらを睨んでいた。
「お、脅かすなよ」
僕が本心からそう言うと、テンコはスニーカーを脱いで両手に持ちながら部屋に入ってきた。
「いったい、いつになったら服を着るのよ」テンコはそうぶつぶつ言いながらスニーカーを玄関に置くと、こちらを向いて両腕を組み直した。
僕はサッシを閉めようと手をかけたが、思いの他涼しい風が入ってくることに気づき、そのままにした。そしてテンコの方を向き直り、こちらも両腕を組んで言った。
「そっちこそいったいいつからいたんだよ」
テンコは相変わらず両腕を組んだまま、頬を膨らませて答えない。僕は組んでいた両腕をほどいて、バスタオルを巻いた腰に手を据えて言った。
「あのな、ここ二階だぞ。それでなくても、夜中にドアじゃなくて窓をノックされたら怖いだろ、マジで」
テンコは一度口を尖らせると、つかつかとこちらに歩み寄って言った。
「幽霊らしいことやれって言ったのはそっちじゃない?」
「そうだっけ?」
僕は目の前に顔を突き出しているテンコを見ながら、思い出そうと束の間努力した。ふと目を下にやると、Tシャツの胸の膨らみが目に入り、間違いなく形がいいであろう中身を想像してしまった。思わず勃起しそうになった。突然テンコは顔を赤らめると、ぷいと横を向いてリビングに向かいながら、「どうでもいいけどなんか着てよ」と言った。
僕がTシャツと短パンを着てリビングに入ると、テンコはソファの上にあぐらをかいて両腕を組んでいた。
僕が例によって床に腰を下ろすと、テンコは言った。
「それで、アサコっていったい誰なわけ?」
僕は口をへの字にしてから答えた。
「去年まで付き合ってた子だよ」
「なんで別れたの?」
「振られた」
「なんで?」
「こっちが訊きたいよ」
僕はそう答えて肩をすくめた。
「それで、今でも好きなわけ?」
「いや」
「嘘吐き」
「嘘じゃない」僕は煙草を探したが、寝室に置いてきたままだということに気づき、諦めた。「だいたい、何をそんなに怒ってるの?」
「怒ってなんかいないもん」そう言ってテンコはまた頬を膨らませた。見ると目に涙が滲んでいた。
「あっそう」
僕は口ではそう言ってはみたが、何故か突然テンコを抱き締めたい衝動に駆られた。それと、何故かまた勃起しかけていた。僕はそれをごまかすため、膝を立てて両手をその前で組んだ。テンコはまだ涙を目に滲ませながら、下を向いて足の指をいじっていた。
時計が目に入った。十二時をとうに過ぎていた。僕は慌ててテンコに言った。
「お前、十二時過ぎてるけど、帰らなくていいのか?」
「わたし、シンデレラじゃないもん」テンコは顔を上げてこちらを睨みつけるようにして言った。それからおもむろに立ち上がると、「でも、帰る」と言って玄関の方に向かった。
「おい、待てよ」
僕はそう言いながら後を追いかけたが、引きとめてどうしよう、ということまでは考えが及ばなかった。何故自分が待てと言っているのかよく分からなかった。
玄関でスニーカーを履き終わったテンコに追いつくと、僕はその腕を取った。テンコは目に涙を浮かべて僕を見つめながら言った。
「どうしてスグルはそう煮え切らないの? もどかしいの? 優柔不断なの?」
いきなり自分の欠点をほとんど全て並べられて、僕は答えに詰まった。テンコは真剣な表情でさらに僕を問い詰めた。
「わたしのこと好きなの? 嫌いなの?」
テンコの目から涙がこぼれ落ちた。
「好きだ」
僕はそう言うとテンコをその場で抱き締めた。
どちらからともなく僕らは唇を重ねて、舌を絡め合った。テンコは僕の背中に両腕を回して、きつく抱き締めてきた。テンコの弾力のある乳房が僕の胸に押しつけられ、僕は勃起した。テンコのからだはしなやかで暖かく、テンコの舌は柔かに湿っていて僕の舌に絡みついた。
テンコが唇を離すと、細い唾液が唇から糸を引いた。僕は指でそれを拭った。テンコは半分泣き顔のまま、少し頬を赤らめて弱々しい笑顔を浮かべると、「おやすみ」と言って僕を突き放し、あっという間にドアを開けて出ていった。ドアがばたんと閉まった。今日は後を追わなかった。いまさっき、テンコが浮かべた笑顔の残像がいつまでも僕のアタマに残り、それはとても切なかった。
11.
気をつけなさい。
シホードーマサコの声が響いて、僕はわっと声を上げてベッドに上半身を起こした。汗をびっしりかいていた。嫌な夢を見たおかげで、目覚ましが鳴る前に目が覚めた。
カーテンを開けると、陽射しが部屋に飛び込んで来た。今日も暑くなりそうである。結局昨日も三時過ぎまで寝られなかった。汗だくになった寝巻き代わりのTシャツをランドリーボックスに放り込むと、シャワーを浴びた。
会社に着いても昨夜の出来事がアタマから離れず、頬杖をついてぼうっと宙を見つめては溜息をついた。隣の席では香取さんが、僕が溜息をつくたびに横目で怪訝そうな視線を送り、首を傾げていた。
何度目かの溜息をついていると、いきなり背中をどんと小突かれた。見上げると、小森という先輩社員だった。小森は、僕の隣の席だが、今週は昨日まで出張で留守にしていた。
「久しぶり」と言いながら、小森は名前に似合わない大きな図体を隣の席にどんと下ろした。
「なんだ、元気ないな、安川、お前も出張行ってこいよ、どっか。いいぞ、出張は」
小森は図体と同じデカい声でそう言うと、僕の背中越しに、はい、みやげ、と言って笹かまぼこの包みを香取さんに手渡した。
「またどっか温泉泊まって来たんですか?」僕がそう尋ねると、小森は「そうじゃなきゃ出張行く意味がないだろ」と答えた。
「それはそうとさ」小森は声を潜めると、僕に暑苦しい顔を近付けて意味深な声で言った。「見たんだよ、温泉で」
「何をですか?」僕は思わず生唾をごくりと飲んで、次の言葉を待った。
「石田ゆり子だよ、石田ゆり子。ドラマの撮影やってたんだ」
それとさ、共演の、と話を続けようとする小森に、僕はわざとらしく腕時計を見ながら、すいません、オレ出かける時間なんで、と言って鞄を持って立ち上がった。ホワイトボードに「市ヶ谷〜飯田橋」と書いて、香取さんに出かけますと告げた。ドアを閉めるのと同時に、僕の席に移動した小森が、香取さんに向かって石田ゆり子だよ、石田、と言っているのが聞こえた。僕はドアが完全に閉まったことを確認すると、アホ、と呟いた。
外は真夏のような陽気だった。寝不足の身にこの暑さは応えた。市ヶ谷の書店を三軒ほど回ると、汗びっしょりになった。地下鉄の階段を降りながら、上着を脱いで手に持った。永田町で半蔵門線に乗り換えると、表参道で降りた。腕時計で時間を確かめると、まだ二時を回ったばかりだった。青山学院方面の出口に向かいながら、この後に控えていることを考えて、踏み出す足がやたら重く感じられた。
昼下がりのスパイラルカフェは、いわゆる業界の打ち合わせや、暇な主婦や学生たちで、思いのほか混んでいた。僕はウェイターに案内された奥の二人がけのテーブルに座ると、パスタランチとポットティーを頼んだ。
ランチを食べ終わり、カップに紅茶をポットから注ぎ足しながら時計を見ると、三時まではまだ二十分ほどあった。煙草に火を点け、背もたれに身体を預けると、ぼんやりと昨夜もなかなか寝付けずに寝床で考えたことをまた考え始めた。あれはいったいなんだったんだろう? 僕にとってテンコとはどういう存在なのだろう? なんで好きだなんて言ってしまったんだろう?
僕はあっという間にフィルター近くまで吸ってしまった煙草を灰皿に押し付けた。
それは僕がテンコを好きだからだ。論理的に考えればそうなる。しかし、同じく論理的に考えれば、確かに四月に死んだはずの人間が、夜中にその自殺した部屋のベランダから現れるというのは、相当に怖い。
気がつくともう一本の煙草に火を点けていた。僕は煙を吐き出しながら、また同じ堂々巡りへと入っていった。
僕は本当に、夜中に二階のベランダからいきなり現れるような幽霊を好きになってしまったのだろうか? それに、どうしてその幽霊をいざ目の前にすると怖くないのだろう?
「ごめん、待った?」
アサコの声が聞こえて、ようやく僕は我に返った。アサコは赤のワンピースを着て、ちょっと小首を傾げて微笑んでいた。相変わらずキレイだった。たぶん、今この店にいる女の子の誰よりも。しかし、僕の心は浮き立つどころか、朝無理矢理起こされたような、そんな気分だった。
アサコは少し顔を上気させながら向かいの椅子に座ると、ウェイターにアイスティーを頼んだ。彼女は片手で髪をかきあげると、久しぶりね、と言った。僕はぎこちない笑みを浮かべながら、そうだね、と答えて、この店に着いてから都合四本目の煙草に火を点けた。
「スグル、ちょっとオトナになったね」そう言うと、彼女はテーブルの上で指を組んだ。
「そうかな」
「うん、カッコよくなった」
僕はまたそうかな、と答えると、視線をテーブルに落として煙を吐き出した。なんとなくアサコの顔をまともに見れなかった。
アイスティーがテーブルに届き、アサコはストローでそれをひと口飲むと、眉をちょっとひそめて言った。
「ね、まだ怒ってる?」
「え?」僕が戸惑った顔をすると、彼女はうつむいて、そうだよね、怒ってるよね、と呟いて、ストローでアイスティーの氷をかき混ぜた。
「怒ってないよ、もう」
僕がそう言うと、彼女は上目づかいに顔を上げてホント? と言った。その目はちょっと潤んでいた。
「で、どうしたの?」
「成田離婚しちゃった」彼女はそう答えると、目を潤ませたまま、へへ、と笑った。「わたしが馬鹿だったのよ。ただのおっさんだっていうことに結婚してから気づくなんて。あのころのわたしはとにかく結婚したかったのよ。それに」そこで彼女はちょっと恨みがましい目をした。「スグルはわたしと結婚する気がないんだと思っちゃったの」
そこで彼女はアイスティーをもうひと口飲むと、僕をきっと見つめて言った。
「どうしてあのときイエスって言ってくれなかったの?」
「そんなこと今言われても」
僕がそう答えると、彼女はまた目を潤ませて、そうよね、わたしが馬鹿だったんだよね、と独り言のように呟いた。彼女は五秒ほど下を向いて黙ったあと、顔を上げてぽつりと言った。
「会いたかった」
そう言うと、彼女の目からつーと涙がひと粒こぼれ落ちた。
やれやれ。僕は自分がそう思っていることにちょっと驚いた。半年前までは、あれほど未練がましく思っていたのに。正直言って、今はこの状況にうんざりしていた。
「スグルは会いたくなかった?」
アサコはさらに追い討ちをかけてきた。
「いや、会いたかったけど」消え入るような声でそう答えながら、半年前までは、という付け加えるべき言葉を言えない自分の性格を呪った。
「ホント?」そう言って、アサコは目をきらきらさせた。まるで少女漫画のように。「じゃあまた電話してもいい?」
「いいよ」僕は半ばやけくそで答えた。
「うれしい」そう言ってアサコがまた目をウルウルさせ始めた途端、ハンドバッグのアサコの携帯が鳴った。ごめんなさい、と言ってアサコは携帯を取ると、ちょっと横を向いて話し始めた。その横顔は、それまでの湿度百二十パーセントのような表情とは打って変わって、このカフェにいかにもお似合いの、てきぱきと仕事の話を受け答えするキャリアウーマンのそれになっていた。僕はその様子を、ちびた煙草をくわえながら、唖然として見ていた。
アサコは電話に向かってはきはきとはい、分かりましたと答えると、通話ボタンを切って携帯を折りたたんだ。そして、こちらを向き直ると、ごめん、わたし行かなきゃ、と言って伝票をつかむと、すっと立ち上がった。
「あ、それ」僕は思わず伝票を指差して言った。
「大丈夫、経費で落ちるから」アサコはそう言ってウインクすると、じゃあね、電話する、と言い残してバッグを手にすたすたとレジの方に立ち去って行った。
後には、僕と後悔とがテーブルに取り残された。アタマの隅っこの方から、女難の相も出ておる、というシホードーマサコの声が聞こえてきたが、僕はそれを煙草と共に灰皿に思いきり押し付けた。
僕はたっぷり五分間ほど、自分の優柔不断さを呪った後に、残りの紅茶を飲み干すと、席を立とうとした。
そのとき、僕の携帯が鳴った。上げかけた腰を椅子に戻すと、ワイシャツのポケットから携帯を取り出してディスプレイを見た。宮本からだった。
「もしもし」
「もしもし、スグル? オレこのあいだ言い忘れちゃったんだけどさ、オレ、アサコにお前の住所と連絡先訊かれたんで教えちゃったんだけど、まずかったかな?」
僕は携帯を持ってない方の手で、額を抱えると答えた。
「もう手遅れだよ」
「あ、わりいわりい。でもいいじゃん、またより戻せば」
「あのなあ」僕は頭痛がしてきそうだった。「で、それだけか、用件は?」
「あ、そうそう、この間の幽霊の話なんだけど」
「何か分かった?」
「あれからうち帰って本読み直してみたんだけど、向こうの幽霊については大体分かった」
「それで?」
「ま、本に書いてあったのは主にポルターガイストのことなんだけど、似たようなもんだ。で、ポルターガイストに関しては大きく分けると主に二つの説があって、ひとつは人間の念が引き起こすという説。これは比較的古い説なんだけど、思春期の子供が引き起こすという説だ。つまり、思春期の子供の無意識のエネルギーが、いろんな現象を引き起こすってわけだ。日本でいう生霊みたいなもんだな。これはポルターガイストが人格から分離した人格の断片だ、っていうところから始まるんだけど、その延長で、無意識理論っていう、個人の無意識の心霊が引き起こすって説に繋がる」
「で、もうひとつは?」
「もうひとつはそのものずばり、死者の霊が引き起こすって奴だ。この説はポルターガイストが最初に発見されたときからある説なんだけど、驚いたことに最近でもこっちの説の方を唱える奴が多いんだ。こっちはスピリチュアリズム、つまり死者の霊は死後も存在する、という前提に基づいている。こっちの説を唱える学者は、特定の場所で人間の過剰なエネルギーを通して霊が出現する、と言っている。その場合、必ずしもティーンエイジャーとは限らない。ま、こっちは日本で言う地縛霊みたいなもんだな」
「地縛霊?」僕は一昨日の夜、テンコにこの部屋で自殺した、と聞かされたときに覚えた、背筋が寒くなるような恐怖を思い出した。
「うん、浮遊霊っていうのもあるけど、この場合は場所が特定されるから地縛霊だな」
「なんかどっちも霊ってのが出てくるからややこしいな」
「まあ、生きてるか死んでるかの違いだ。サイコメトリーって知ってるか?」
「いや」
「よくテレビの特番でやってる、アメリカで行方不明者の捜索とか、FBIの犯罪捜査に協力してる奴がいるだろ、あれだよ。過去を透視するっていうか、物とか場所とかに過去がなんらかのかたちで記録されるっていう。前に流行った『リング』ってホラーがあったろう。あれもそうじゃん。あれ自体は作り話だけど、元になった実験は実際にあったわけで」
「それと幽霊がどう繋がるんだ?」
「幽霊は一種のテープ・レコーディングだって説があるんだよ。だから過去を透視したり、霊媒なんて職業の人間がいたりする。いずれにしろ、基本は死んでもなんかしらのものが残る、ってことなんだけどね」
「へえ」
「それでさ、興味深いのは、その、特に死者の霊が引き起こすって方の説なんだけど、これは一種の憑依なんだよな」
「ヒョウイ?」
「ま、憑きものだよ。憑きもの落としって言うだろ? つまり死者が取り憑くってわけだ。地縛霊にしろ、浮遊霊にしろ一種の憑きものだ。これには初期の頃から心理学的な解釈があった。ヒステリーだと唱える学者もいたし、人格分離、いわゆる多重人格説もある」
「多重人格ね、なるほど」
「解離性人格障害。別の人格を造ってしまい、それが憑依に見えちゃうってわけだ。しかし、実際にはこれで説明のつかない場合が多くて、例えば全く知らないはずの言語を話すとか、さっきのサイコメトリーのように知らないはずの人のことまで分かる、とか。ま、地縛霊にしろ、浮遊霊にしろ、いずれにしてもポイントは憑依ってことだから、どっちにしても憑きもの落とし、つまり除霊が必要なんじゃないか、その人?」
「その人?」
「その幽霊を見たって人だよ」
「あ、あ、そうか。言っとくよ」
「今のところはこんなところかな。なんなら除霊師でも探しとこうか?」
「いや、いいよ、ありがとう、助かったよ」
じゃあな、と言って携帯は切れた。僕はシホードーマサコの陰気な顔と声を思い出し、喉がからからに乾いた。すっかり氷の溶けたコップの水を、喉を鳴らして飲んだ。
12.
メシを食って帰ろうとしつこく誘ってくる小森に、今日は用事があるから、と断って会社を後にした。
渋谷でバスを降りると、青山通りを渡って桜ヶ丘町のジャズ喫茶に入った。とにかく独りになりたかった。古ぼけたドアを開けると、ジャコ・パストリアスのベースに合わせて速いパッセージを弾くハービー・ハンコックが、大音響で聞こえてきた。店内は、この店にしては客が多かった。袈裟姿の坊主が隅の席に独りで座っているのが目に入り、へえ、と思った。ジャズ喫茶と坊主という取り合わせも、考えようによっては粋だ。坊主とは反対側の隅に座り、明太子のスパゲティを頼んだ後で、昼もパスタを食べたことを思い出し、しまったと思ったが、後の祭だ。
食後のコーヒーを飲みながら昼間携帯で宮本と話したことを考えた。
憑依。
不動産屋で川島典子という人間が実在したことを確かめた時点から、僕はテンコが間違いなく本人が言うように幽霊であると思い込んでいた。しかし、それは飽くまでもテンコが川島典子本人である、という前提の話である。昨夜抱き締めたあの身体が、テンコの実体そのものが川島典子であるという保証はない。僕は昨夜の華奢な背中の感触、弾力のある胸の膨らみ、絡み付く舌、そして顔を少し赤らめながら、半分泣き顔でおやすみ、と笑ったテンコの顔を思い出し、胸が苦しくなった。
もしも彼女が誰かに憑依しているのだとしたら? あの身体は本物の人間で、川島典子じゃない他の誰かの身体を借りているだけだとしたら?
とすると、あの身体はいったい誰なのだ?
僕は首を振って煙草に火を点けた。次第にアタマが混乱してきた。
煙をひとつ吐き出しながら、待てよ、と思った。もし誰かに憑依していると仮定しても、それでもテンコが幽霊であることには変わりないのだ。そう考えると、何故だか分からないが少しほっとした。それからふと思った。馬鹿げている。幽霊だということにほっとしているなんて。
アルバムが変わって、キース・ジャレットのピアノソロになった。僕はもうひとつの可能性を考えた。テンコが幽霊じゃなかったら? 誰かの人格のひとつだったら?
そう考えれば、彼女は確かに人間であると言えるが、逆に永遠とは言えなくなる。いくつかある人格のひとつであるとすれば、いずれは消え去る運命なのかもしれない。僕は頬杖をつきながら煙をゆっくりと吐き出した。しかし、人間なんてどうせ永遠ではないではないか。皆いずれは年老いて死んでいく運命にあるのだ。そこまで考えて、僕のアタマは逆戻りした。幽霊は永遠なのだろうか? 一度死んでいるだけに、この先永遠に年を取らないのだろうか?
もう何がなんだか分からなくなった。僕のアタマは収拾がつかなくなっていた。もうなんでもいい。単なる幽霊でも、誰かに憑依している霊でも、誰かの人格のひとつであっても。僕に分かっているのは、テンコのことを考えると、やけに切ないということだけだった。
煙草を灰皿に押し付けて、冷めかけたコーヒーを飲んだ。そのとき、誰かの視線を感じた。僕は見られている。
顔を上げると、目線の先にこちらを見つめる例の坊主の姿が目に入った。年のころは三十代後半といったところか。思ったよりも若かった。精悍な顔で、身じろぎもせずに僕の方をじっと見ていた。僕はきまりが悪くなって視線をそらした。煙草をポケットにしまうと、残りのコーヒーを飲み干した。もう帰ろう。今夜もテンコは来るのだろうか。
僕は伝票をつかむと、鞄を手にレジへと向かった。
木の狭い階段を降りると、路地に出た。腕時計を見ると、九時だった。僕は緩い坂道を駅の方に足を向けた。
「ちょっと」
後ろから野太い男の声がした。足を止めて振り向くと、先程の坊主が立っていた。僕が驚くと同時に薄気味悪さを覚えて黙っていると、坊主はこちらを見据えながら言った。
「悪いものが憑いているようです。落としてあげましょう」
有無を言わせぬものがあった。僕が茫然と目を見開いていると、坊主は伏目がちに目を閉じて、右手の人差し指と中指で印を切りながら、何事か唱え始めた。それはアビラウンケンソワカと繰り返しているように聞こえた。僕は恐怖を感じた。テンコと二度と会えなくなるような気がした。ようやく声が出た。
「け、結構です。止めてください」
僕がひとつ後ずさると、坊主は最後に二本指を僕の胸の辺りに突き出して、呪文を唱えるのを止めた。それから目を開けると、思いのほか穏やかな笑みを浮かべて言った。
「余計なことをしましたかな」
僕は何も言わずに駅に向かって駆け出した。振り返らずに。
ホームで電車が来るのを待っている間も、まだ少し息が切れていた。ようやくやってきた田園都市線は混んでいた。僕は吊革に捕まりながら、窓に映る自分の顔を見た。それは不安に怯える顔だった。
駅から歩きながら、もう会えなかったらどうしようとそればかりを考えた。勝手なことをしやがって、と坊主に対して怒りを覚えた。それからシホードーマサコをちらっと思い浮かべて、どいつもこいつも悪霊呼ばわりしやがって、と心の中で毒づいた。怒りに任せて、いつしか早足になっていた。もう悪霊でも生霊でも地縛霊でもいい、オレはテンコが好きなんだ。いつのまにかそう自分に言い聞かせていた。
公団住宅の間の私道を抜けようとすると、頭上でばさばさっという音が聞こえて足が止まった。見上げると、電信柱や電線に十羽以上のカラスが群れていた。僕はその数の多さにぞっとして肩をすくめた。気がつくと、ちょうど一昨日テンコがひょいと現れた藤棚の前だった。僕はもしかしたら、と思って目を凝らしたが、どう見ても藤棚の下のベンチには誰も座っていなかった。頭上でカラスが気色の悪い声でカアと鳴いた。僕は薄気味悪くなって、また歩き始めた。
カラスのお陰なのかどうなのか、先程まで僕の足をむやみに動かしていた怒りは収まっていた。普段のテンポで歩き始めると、次第に冷静さが戻ってきた。マンションまであとワンブロック、というところでまた足が止まった。前方には下弦の月が輝いていた。少しアタマを冷やす必要があると思った。僕は左手に向きを変えると、寄り道をすることにした。矢沢川まで辿り着くと、橋の欄干に両肘をついて真っ暗な川面を見つめた。川の両側に立ち並ぶ桜の樹々が、街灯に照らされて川面にその陰影を落としていた。僕はポケットから煙草を取り出すと、ジッポで火を点けて、ゆっくりと吸い込んだ。
僕はいったい何を熱くなっていたのだろう?
少しずつ煙を吐き出しながら、思い返してみた。先程までの自分は、シホードーマサコや坊主に闇雲な怒りを覚えていた。それは恐怖と言ってもよかった。何故だ? 何かが偏っているような気がした。自分が一方向に吸い寄せられているような。もう一度深々と煙草を吸い込むと、ゆっくりと煙を吐いた。川面に街灯の光の断片がきらきらと反射するのを見つめながら、今日一日の自分の思考を追ってみた。アサコを待つ間に考えたこと、それからアサコが現れて、宮本から携帯に電話があって。ジャズ喫茶で考えたこと。それからあの坊主。
憑依。
憑依だ。僕は憑依ということに関して、テンコが誰か他の女の子に憑依している可能性しか考えていなかった。自分に憑依している、という可能性を考えてもみなかった。考えてみれば、それは真っ先に頭に浮かぶはずのことであるにも関わらず。シホードーマサコも、あの坊主も、全てそれを示唆していたというのに、僕はそれを否定するのに躍起になっていた。それは恐怖になり、怒りに変わった。そこでようやく、ついさっきまでテンコを好きだと自分に言い聞かせていたことを思い出した。これが憑かれている、ということなのか?
そこまで考えて、僕のベクトルはもう変えようのないところまで来ていることに気づいた。僕はテンコに惹かれている。それは否定しようがない事実だった。例えそれが彼らの言う、憑かれているということであったとしても。僕はテンコを悪いものだと思えないのだ。思いたくないのだ。だからそれを示唆するものを否定したいのだ。僕はテンコにではなく、テンコを否定するものに恐怖を覚えているのだ。これはいったいどうしたことだ? 僕はもう一度煙草を深く吸い込むと、川に放った。
川面を流れて行く吸殻をぼんやりと見ながら、絶望とも、諦めともつかない思いが突き上げてきて、僕はそれを溜息と共に吐き出した。もう遅いのだ。僕はもう恋をしてしまっているのだ。例えそれが幽霊で、僕に取り憑いているものであっても。
僕は溜息をもうひとつつくと、帰りの途に就いた。
蒸し暑い夜だった。十二時まで待ったが、テンコは現れなかった。たまらなく寂しかった。誰かと話していないと気がヘンになりそうだった。僕は携帯を手にすると、タンクトップに短パンのままで部屋を出た。
通りを渡って、向かい側の公園に辿り着くと、木のベンチに腰を下ろした。手にした携帯を見つめて、誰に電話しようか考えた。誰も思いつかなかった。こんな気分のときに電話で話せる相手は。携帯を手にうなだれていると、足元に猫がいるのに気づいた。この公園に住みついている野良猫だ。猫はスニーカーを突っ掛けた僕の足に身体を擦り寄せて、それから僕の足元に寝転んだ。
「なあ、オレは間違っているのか?」
僕は猫に話しかけた。猫はちらっと僕の方に一瞥をくれると、退屈そうに離れて行った。携帯をベンチに置くと、両手を頭の後ろに組んで、身体を反らせて上を見上げた。たわわに葉を茂らせた木の枝の隙間から夜空が見えた。心地よい風が吹いて、枝の葉を揺らした。オレはいったい何をやっているんだろう? 思わず声に出して独り言を言った。
突然、携帯が鳴って、僕は飛び上がるほど驚いた。手に取ってディスプレイを見ると、非通知だった。昼間のアサコのことを思い出し、気が乗らぬまま通話ボタンを押すと、もしもし、と言った。
「もしもし」
今度こそ本当にびっくりした。聞こえてきたのはテンコの声だった。
「ごめん、今日は行けない」
「どうかした?」
「とにかく今日は行けないんだ」心なしか今日のテンコの声は元気がなかった。
「今度いつ会える?」
「たぶん明日」
「なあテンコ」
「なに?」
「オレのこと好きか?」
「好きよ」
「ありがとう」
「じゃあね」
電話は切れた。僕は溜息をひとつ洩らすと、この場合は適当ではないかもしれないが、神様に感謝した。誰でもいいから感謝したかった。今日考え続けたことなどどうでもよくなっていた。よしんば彼女が僕に取り憑いた悪霊だとしても。とにかく、これでようやく今日は眠れそうだった。
13.
一夜明けて、吊革に捕まりながら会社に向かっていると、昨日ジャズ喫茶で考えたことがやっぱり気になってきた。自分以外の誰かに憑依している可能性。もしくは誰かの人格のひとつである可能性。一度考え始めると気になってしょうがない。僕はせめて、僕の知っているテンコが本当に川島典子本人なのか、それだけでも知りたい、と思った。彼女が一時的な存在なのか、それとも永久不変な存在なのか。
渋谷から六本木に向かうバスに乗り込んで、一番後ろの窓際に座り、窓の外を眺めながら発車するのを待った。その間にも、先程以来考えていることをどうしたら確かめることが出来るのかを考えていた。
隣に人が座るのと同時に、肩を叩かれた。
「おはよ」
見ると、同期入社で編集に配属された、菱川果林だった。
「おはよう。珍しいじゃん、こんな早く」
「今日は編集会議があるんだ」
ふーん、と僕はやっかみ半分で答えた。正直、編集に配属された彼女が羨ましかった。僕も一度でいいから、喫茶店のモーニングサービスを食べながらだらだらとやる会議ではなく、編集会議なるものに参加してみたかった。
彼女とは面接のときに隣り合わせだった。キレイな子もいるな、と僕はそのとき思った。中山美穂にちょっと似てるが、もうちょっとボーイッシュにした感じだ。彼女のからっとした性格には、なかなか好感を持っていた。
「ふふ」菱川はおもむろに僕の顔を覗き込むと、意味深に笑った。
「な、なんだよ」
「見たわよ、昨日」
「見たって、何を?」
「安川くんも案外やるじゃん、誰、あの子?」
僕は、げ、と思った。
「な、なんでもないよ。大学の同級生だよ。おまけに人妻だ」僕は、元、という接頭辞を省いて答えた。
「へー」そう言って菱川は目を細めて、それからにこっと笑みを浮かべると、「でもちょっと安心した」と言った。
「なにが?」
「なんでもない」
そう言うと、前を向き直った。バスが動き始めた。僕はふと思いついた。
「ねえ、菱川ってさ、上智だったよね?」
「そうだよ」
「何学科?」
「独文」
それを聞いて僕はちょっとがっかりした。しかし、何もないよりはマシだ。
「なあ、菱川って口固い?」
「んー、相手と場合によるな」
「この場合は?」
「もちろん」
「それってどっち?」
「固い方」
「ちょっと相談したいことがあるんだ。会議終わってから時間ない?」
「あるけど」
「じゃあメシでも一緒に食おう」
菱川はうん、とうなずくと、聞こえないくらいの声で、ちょっと嬉しかったりして、と呟いた。僕はそれを聞こえていない振りをした。女難の相、というシホードーマサコの声が、どこからともなく聞こえた。
先に東日ビルの裏手の喫茶店に入って菱川が来るのを待ちながら、どこまで話したものか、と考えた。菱川はなんとなく信頼出来る印象がある。かと言って、百パーセント話すのは考え物だ。ここはそうだな、七十パーセントぐらいかな、それも訊かれたらにしよう。そこまで考えていると、菱川がドアを開けてやって来た。彼女は笑みを浮かべながら向かい側の席に腰を下ろすと、ゴメン、会議押しちゃって、と言った。
僕はなかなか話を切り出せず、サンドウィッチを食べながら、編集の仕事ってどう、などと話していた。食べ終わって、食後のコーヒーに口をつけながら、僕はマイルドセブンライト、菱川はマルボロのメンソールに火を点けた。
「それで」菱川はテーブルに肘をつくと、訊いてきた。「相談ってなに?」
「あのさ、哲学科に友達っている?」
「いるよ、ひとり、寮で一緒だった子が」
「連絡取れる?」
「うん、タマにお茶飲んだりしてるもん」
僕はほっとしながら煙を吐き出した。
「実はちょっと頼みがあるんだ」
「なによ」そう言いながら菱川は片手で頬杖をついた。
「あのさ、哲学科の一年後輩、つまり今の四年てことだけどさ、その哲学科の四年の女の子をひとり、紹介して欲しいんだ」
菱川は目を丸くした。それから眉をひそめると言った。
「わたしに女紹介しろってわけ?」
「いや、そうとも言えるが、そうとも言えないんだ」
菱川はますます眉をひそめて言った。
「なに訳の分からないこと言ってんの?」
「つまりその、なんだ、ある人間を探してるんだ。もう死んでるんだけど」
菱川はきょとんとした顔をして、形のいい口から煙を少しずつ吐き出した。
「探偵でも始めたの? どうするのよ、死んだ人間を探して」菱川は灰皿に灰を落とすと、困ったような顔をして言った。「まあ、安川くんのためだからしょうがないけど」
僕はどこまで話したものか迷った。
「あのさ、その子はオレの今住んでるマンションに住んでたんだ」
「それで?」
「そこで自殺したんだ」
「それってつまり、安川くんは自殺のあった部屋に住んでるってこと?」
「うん」
「でもその自殺した人を探すってどういう意味?」
僕は短くなった煙草を最後に思いきり吸い込んで、灰皿に押し付けた。
「幽霊を見たんだ」
今度こそ菱川は本当に目を丸くして、唖然とした。持っていたマルボロの先から灰がぽとりとテーブルに落ちた。僕は構わず続けた。
「それでそれが本人かどうか確かめたい」
菱川はようやく我に返ったように、煙草を灰皿で消すと、溜息を短くついた。
「それってマジ?」
「マジだよ」
菱川は呆れた顔をすると、もう一本の煙草をくわえて、ライターで火を点けながら言った。
「しょうがないなあ、ホレた男のためならば、か」僕は事態をこれ以上ややこしくしないために、その言葉は聞き流すことにした。菱川は煙をふうと吐き出すと、少し身を乗り出して言った。「で、どうすればいいわけ?」
「川島典子って言うんだ、その子。その川島典子と仲のよかった子に会いたい。出来れば写真があるといいんだけど」
菱川はコーヒーをひと口飲んで、ついでにもう一度溜息をついてから答えた。
「分かった。なんとかする」
「恩に着るよ」
「でも」菱川はちょっと眉をひそめて煙を吐き出すと言った。「なんて説明したらいいの? まさか幽霊が本物かどうかなんて言えないでしょう?」
「そうだな、フリーのライターだってことにしてよ。若い子の自殺について取材してるってことでどうかな?」
「うーん、それだったら幽霊の方がマシかもしれないな…… ま、考えてみる。急ぐの?」
「うん。すまん」
「いいわよ。たぶん大丈夫よ、安川くんってカッコいいから、実際会ったらすんなり協力してくれると思うよ」
「そうかな」
「まったく、朴念仁なんだから」そう言って、菱川はちょっと頬を膨らませると、席を立ちながら言った。「アンタって案外モテるのよ。自覚ないでしょ?」
僕はなんと答えていいものか分からず、頭を掻いた。正直、今はそんな自覚をする余裕はなかった。
三時過ぎに外出するついでに、念のために「特急名刺」と書いてある店に寄り、フリーライターの肩書きの名刺を頼んだ。住所と電話は自宅のにして、携帯の番号とメールアドレスも載せることにした。夕方戻ってくるころにはもう出来上がっているとのことだった。
浅草で三軒の書店に立ち寄り、浅草線で日本橋まで戻ろうと地下鉄の入り口に向かうと、携帯が鳴った。菱川からだった。
「見つけたわよ。本山さんって子。川島さんと一番仲がよかったらしいわ。安川くんの携帯の番号教えておいたから、電話かかってくると思う」
「ありがとう。さすがに仕事が速いね」
「それから、フリーライターってことにしてあるからね、よろしく」
「恩に着るよ」
「じゃあ、今度ゴハンおごってね」
「分かった」
通話ボタンを切って、ほっと安堵の溜息をついた。
会社に戻る直前に、名刺を頼んだ店に寄ってみると、名刺はもう出来上がっていた。僕は出来上がった名刺を眺めながら、マジでフリーライターにでもなろうかな、などとちらっと思った。
タイムカードを押して、ひとりだけまだ残って相変わらずスポーツ新聞を読み耽っている坂崎にお先に失礼しますと声をかけると、会社を後にした。
バス停でバスを待っていると、携帯が鳴った。ディスプレイを見ると、見慣れぬ番号が並んでいた。
「もしもし」
「あの、安川さんの携帯ですか?」甲高い女の子の声だった。
「そうですが」
「あの、わたし、本山と申しますが」
「あ、ああ、どうも」
「あの、川島さんのことで何か取材だって聞いたんですけど」
「そうなんです。どこか時間取れますか?」
「明日の三時過ぎだったら何時でも大丈夫ですけど」
「そしたら四時でどうかな」
「いいですよ」
「場所は…… 学校は四谷だよね?」
「あ、どこでもいいです」
「じゃあ、渋谷でもいいですか?」
「はい」
「じゃあ、109の地下のカフェ・ラミル。あそこだったら携帯通じるから」
「分かりました」
「じゃあ、よろしくお願いします。あ」
「はい?」
「あの、聞いてるかと思いますが、何か写真があると嬉しいんですが」
「持っていきます」
「ありがとう。じゃ、明日」
電話を切ってから、オレもなかなか探偵の素質あるじゃないの、と思ったが、よくよく考えてみれば、これはほとんど菱川のセッティングなのだった。やれやれ、と思いながらバスに乗った。
駅を降りると、まだ日は落ち切っていなかった。考えてみれば、今は一番日が長い時期なのだ。コンビニに寄って弁当を買うと、とぼとぼと自宅に向かった。
帰って弁当を食べると、ディスカバリーチャンネルを見ながらテンコが現れるのを待った。ひとつ番組が終わり、時計を見ると九時だった。彼女が一番早く現れたのは何時だったかを思い出そうとした。確かあれは、公団住宅の陰から現れたときだから、九時半か十時近かった。後は、と考えて僕は唖然とした。数えてみると、僕はまだテンコと三回しか会っていないのだ。後は電話で話したのが一回。時間にしてみれば、ほんの数時間といったところだろう。信じられなかった。たったそれだけで、どうして僕は、もしかしたら僕らは、こうまで惹き付けられてしまったのだろう? アタマの一方では「運命」と「ヴァイブレーション」という文字が浮かび、もう片方の隅では、シホードーマサコと坊主が、一緒になって「悪いものが憑いています」と言っていたが、僕はそっちの方のボリュームを絞ろうと懸命に努力した。いずれにしろ、もっと以前から知り合ったような気がしてならなかった。
僕は待った。
テーブルの上に携帯を置いて、ディスプレイをしばらく眺めたかと思うと、窓に近寄ってカーテンを開けてみたり、うろうろと落ち着きなく部屋中を歩き回った。終いにはコンピュータを立ち上げて、メールが届いていないか確認した。
僕は何度も時計を確認した。時計が十二時に近付くにつれ、ああ、今日が終わっちまう、と思った。昨日、坊主が僕に何やら印を切りながら呪文を唱えたのを思い出し、むらむらと腹が立ってきた。もしかしたらあのせいか? あいつがテンコを追い払ったのか? 腹立ちがようやく収まると、今度は不安が僕を襲ってきた。もしかしたらもうテンコは現れないのではないか? もうテンコには会えないのではないか? そう考え始めると、いても立ってもいられなくなり、風呂場に行ってシャワーを浴びた。いつのまにか、昨日の帰り道の途中までの思考回路になっていることに、僕は気づかなかった。
十二時を過ぎてもテンコは現れなかった。携帯も鳴らなかった。僕は洗いっぱなしの髪のまま、机の前に座り、もう一度メールをチェックした。
メールが一通届いていた。宮本からだった。
メールを開けてみると、宮本にしては珍しく、ほんの短いメールだった。
―― こんなページを見つけたので、参考までに。 宮本
その下に、サイトのアドレスが書いてあった。ブラウザを立ち上げて、そのアドレスのページを開いた。
どこかのホームページの一部分のようだった。シンプルなテキストだけのページだった。一行目にタイトルが書いてあって、「浮遊霊と地縛霊」とあった。その下に一行、「これらの霊が人間に憑依して霊障を起こす」とあった。その後に、浮遊霊と地縛霊についてそれぞれ、数行に渡って解説がしてあった。簡単に要約するとこうだ。浮遊霊は死者の霊が行くべきところに行かずに逃げ出したものである。地縛霊は、殺されたり、事故死、自殺等の変死を遂げるとなるもので、その死んだ付近の場所に縛られたものである。いずれの場合も、現世になんらかの未練を残し、特に後者の場合は自分が死んだことに気づいていないことも多い。
僕はディスプレイから目を離して考えた。テンコの場合はどちらになるのだろう? 自殺というところから考えると、地縛霊、ということになるのだろうが、地縛霊の特徴はその場所に縛られている、ということである。彼女は現に、帰り道の途中で現れた。あの公団住宅からここまでは、五十メートルぐらい離れている。ここに縛られているのなら、あれぐらい離れた場所に現れることは可能なのだろうか? それに、彼女は自分が死んでいることを知っている。次に、浮遊霊という可能性を考えてみた。しかし、彼女が何かから逃げ出しているようには見えない。テンコがいつか言った「先入観」という言葉がアタマに浮かんだ。だいたい、この分類自体が正確なものだとどうして言えるのだ? これはどうせ生きている人間の考えた分類だろう。幽霊本人が言っていることではないのだ。
しかし、と僕は考えた。引っ掛かるものがあった。もし彼女が現世に思い残していることがあるとすれば、それはなんなのだろう? そもそも、彼女が自殺した原因はなんだったんだろう? 二日目の夜、彼女にそれを訊きかけて、話がずれてしまって聞き出せなかったことを思い出した。また訊いたら嫌がるだろうか。そう考えてから、そうか、もう彼女は現れないかもしれないのだ、と思い、たまらなく寂しくなった。
僕はもう一度ディスプレイに目を戻した。いずれの場合も除霊によって成仏させることによって――
僕ははっと思い、サーチエンジンのページを呼び出し、「除霊」と打ち込むと検索ボタンを押した。ずらっと並んだページタイトルの中に、「除霊の方法」というタイトルを見つけ出し、クリックした。今度は何やら画像が含まれたページだった。真中辺りに「呪文」という文字を見つけ、そこに書いてあるものを読んで愕然とした。アビラウンケンソワカ。あの坊主が唱えていた文句だ。下の方には、手のイラストが描いてあって、印の切り方を示していた。あの坊主がやったのと同じ。
僕はあの渋谷の路地裏でのことを思い出し、くらくらした。画面の下の方に、上記の方法で霊は二度とこの世に戻ってこない、という文章を見つけ、さらに暗澹たる気持ちになった。煙草を一本くわえて火を点けて吸い込むと、煙と一緒に大きく溜息を吐き出した。
あの糞坊主、と心の中で毒づきながら画面に目を戻すと、呪文がそれだけではないことに気づいた。例のアビラウンケンソワカを唱えてから、リンビョウトウシャカイヂンレツザイゼンと唱える、とある。その際の印の切り方も図解で示してあった。さらに順番としては霊に浄土に行くことを諭し、その後でケンバイケンバイソワカと数回唱えることで除霊が完了する、とある。僕は安堵の息を洩らした。あれではまだ除霊は完了していなかったのだ。あの坊主の行なった除霊は不完全だ。そう心の中で言い聞かせながら、もう一度煙草を深く吸い込んだ。大丈夫だ。除霊はされていない。テンコは必ず現れる。そう繰り返し念じながら、ふーっと煙を吐き出して、ま、気休めみたいなもんだな、と思った。
明け方の四時まで待ったが、結局その晩、テンコは現れなかった。
14.
目が覚めると、もう十時を回っていた。どうやら目覚ましも勝手に止めてしまったらしい。そそくさと顔を洗うと、会社に電話を入れなければ、と思ったが、考えてみれば今日は土曜日だった。
例によってトーストとコーヒーの朝食を摂りながら、昨夜テンコが現れなかったことを改めて思い出し、溜息をついた。結局、昼過ぎまで部屋で大リーグの中継を見て過ごした。イチローは無安打に終わった。
四時ジャストに渋谷に着いた。早足で地下道に入り、109を目指した。喫茶店に着いたときには、五分ほど過ぎていた。いざ着いてみると、店内は女の子ばかり、それも皆似たような年頃の若い子ばかりで、どれが目当ての本山さんか分からなかった。お待ち合わせですか、というウェイトレスにはい、と答えながら、昨日着信したものを保存しておいた、本山さんの番号に携帯から電話した。すると、目の前のテーブルから、ラブサイケデリコのメロディーが流れた。あ、と僕らはお互いに声を発した。
本山さんは、榎本ナントカという女優を思わせる、小柄で茶髪の痩せた女の子だった。僕はどうも、と言って向かい側に座ると、ウェイトレスにコーヒーを頼んだ。
本山さんは、しげしげと僕を眺めた後、「思ったよりお若いですね。それに、安藤正信にちょっと似てる」と言って微笑んだ。
僕は、誰だっけ、それは、と思いながら、昨日作ったばかりの名刺を差し出しながら、「すみません、遅くなって」と言った。
本山さんは名刺を受け取って、それをしばらく見ていたが、顔を上げて言った。
「あの、わたしもライターになりたいんですけど、どうやったらなれるんですか?」と訊いてきた。
僕は思わず、へ、と言う顔をして答えに詰まり、慌ててポケットから煙草を取り出した。
「あの」本山さんは追求の手を緩めなかった。「安川さんは、どうやってライターになられたんですか?」
僕はライターで煙草に火を点けながら、ライター、ライター、ライターになるには、と必死で考えて、口から出任せを言った。
「出版社に一年ほどいて、それから独立したんです」
「へー、凄いですね、そんなに早く」
「いや、その前からバイトしてたから」僕がははは、と笑ってごまかしている間に、タイミングよくコーヒーが届き、ほっとしながらひと口飲んだ。
「それで」ここは先に訊いたもん勝ちだ、と思いながら僕は口を開いた。「川島さんのことですが」
「あ、はい」彼女は気持ち沈んだ顔になった。
「彼女とは仲がよかったんですか?」
「ええ、一年のときから同じサークルで」
「どんなサークル?」
「演劇部です。あの」
「えっ?」
「取材って、テープレコーダーとか回さなくて大丈夫なんですか?」
「ここに入れますから」そう言って僕は自分の頭を指差して、ははは、と笑ってごまかした。まったく油断がならんな、この子は、と思いながら、僕はもう一度訊く側に回った。
「それでその、自殺の原因はなんだったんですか?」
「たぶん、失恋だと思います」
「たぶん?」
「ええ、遺書とかなかったんです」
「そうですか。で、その失恋の相手というのは」
「サークルの先輩です。テンコは、あ、みんなテンコって呼んでたんです、その先輩にずっと憧れてて」
僕はテンコという呼び名を耳にしてどきっとしたが、それを悟られないように横を向いて煙を吐いた。
「よかったら名前教えてもらえますか? その人の」そこで僕はシステム手帳を開いてボールペンを手にした。
「相原正人って言います」
「えーと、アイハラさんね、字は?」
「相原コージの相原に正しいに人です」
結構マニアックかもしれないな、この子は、と思いながら、僕は手帳に書き留めた。
「先輩ってことは、もう卒業してるんだよね、その人?」
「はい、今は、えーと、レコード会社の宣伝部に」そう言うと、本山さんはメジャーなレコード会社の名前を口にした。僕はアサコの勤める会社と違う会社であることに、内心ほっとした。
「ということは、もう演劇は止めちゃったってわけだ、その、相原さん」
「そうだと思います。あの」
僕はまたどきっとした。頼むからその、あの、っての止めてくんない、と心の中で思った。
「そういえばちょっと似てるかも知れない」
「誰が?」
「安川さん。相原さんと」
恐らく僕は思いきり嫌な顔をしていたに違いない。彼女は慌てて付け加えた。
「相原さんてカッコいいんですよ、サークルでも一番人気で」
そういう問題じゃないんだよな、と思いながら、僕は質問に戻った。
「それで、自殺に至る経緯なんだけど、知ってること話してくれないかな?」
本山さんはアイスティーをストローでひと口飲むと、どの辺から話せばいいですか、と訊いたので、どこからでもいいよ、と僕は答えた。
「入部したときからずっと憧れてたんですよ、テンコ。相原さんてやたらモテるのに、何故か彼女がいないって噂で。で、テンコ、去年の夏に思いきって告白したんです、相原さんに」
「それで?」
「付き合ってました」
「付き合ってた?」僕はコップの水をごくりと飲んだ。
「ええ、それが相原さんが卒業するって頃に突然振られて。それで彼女塞ぎ込んじゃって。医者にも通ってたみたいです」
「医者?」
「その、精神科っていうか、心療内科っていうか。鬱病だったんじゃないかな」
「なるほど」
「それで睡眠薬ももらってたみたいです。飲まないと眠れないって」
僕は懸命に平静を装ってうなずきながら、腹の中では相原って奴に猛烈に腹を立てていた。まるで生まれてからの仇ででもあるように。
「四月になってからはサークルにもあんまり顔を出さなくなって。で、突然あの日」
「その、誰が発見したのかな?」
「えーと、彼女のお母さんだったと思います。睡眠薬飲む前に電話したみたいで。ごめんねって」
僕はテンコの顔を思い出して、急に切なくなった。手に持っていた煙草が、とうにフィルターまで燃えて消えていたことに気づき、灰皿に捨てた。
「あの、頼んでおいた写真なんだけど」
僕がそう言うと、本山さんはルイヴィトンのセカンドバッグを開いて、二枚の写真を取り出して、これなんですけど、とテーブルの上に置いた。僕はちょっといいですか、と言うと、写真を手にした。一枚目は女の子がふたり、ピースマークをして写っていた。
そこではテンコが思いきり笑っていた。
もう一枚の写真を見ると、サークルの全員で撮った写真のようだった。その二列目の真ん中辺りにテンコがいた。確かにテンコだった。僕は思いきり目を見開いて、呼吸が速くなった。言葉が出なかった。
「あの」本山さんが心配そうな顔をして、僕を覗き込んだ。「どうかしましたか?」
「いや」僕はようやく声を出した。またコップの水を飲んだ。「こんな可愛い子が、と思うと」
「その」本山さんは集合写真の方を指差すと、一列目の真ん中の男を指差した。「この人が相原さんです」
確かに色男ではある。しかし、僕に似ているとは思えなかった。どこかのビジュアル系のバンドのボーカルみたいな奴だった。
その隣の隣がわたしで、と本山さんがぶつぶつ言っていたが、僕はほとんど聞いていなかった。もう一度テンコが大きく写っている方の写真をまじまじと見ると、テンコ、と心の中で呟いた。
「あの」僕が口を開くと、まだ写真を説明していた本山さんは、え、という顔をした。「こっちの」二人だけで写っている写真を手に持った。「写真だけお借りできませんか?」
「いいですよ。わたしネガ持ってますから」
「すみません」そう言うと、僕は写真をシステム手帳に挟んだ。
「あの、安川さんって彼女いるんですか?」
「えっ?」見ると、本山さんはこちらを見てもじもじと身体をくねらせている。僕はなんと答えていいものか分からなかった。「その、なんて言うか、正確に言えばいないと言うか……」
「あの、今度就職の相談に乗ってもらってもいいですか?」そう言って、本山さんは思いきり微笑んだ。
「え、ええ」
僕は無理矢理笑顔を作って答えたが、脇の下に汗をかいていた。いったい、どうしてこうなるんだろう?
僕は次の取材があるんで、と嘘を吐いて、喫茶店を後にした。109の外に出ると、思いきり深呼吸をした。とにもかくにも、本山さんから解放されたことにほっとしていた。ほっとすると同時に、どっと疲れが押し寄せた。僕はひとつ大きなあくびをした。考えてみると、今週はロクに寝ていない。時計を見ると、六時を回っていた。何か食べて帰ろうと、地下通路から地上に出た。
気がつくと、自分がプライムの目と鼻の先にいることに気づいた。シホードーマサコのことが頭に浮かび、ぞっとすると、とにかくここから離れようと歩き始めた。道玄坂を渡って、井の頭線の駅に通じる道を歩いた。どこか落ち着いて食べられる店に入ろうと、井の頭線のガードをくぐりかけた途端に、携帯が鳴った。菱川からだった。
「もしもし」
「で、どうだった?」
「ありがとう、助かったよ」
「ねえ、安川くん」
「なに?」
「幽霊は幽霊だよ、タマには現実を見てね」
「ああ、分かった」
「ホントにゴハンおごってね」
「うん、分かった」
通話ボタンを切ると、いい奴だなと思った。テンコがいなかったら、僕もよろめいていたかもしれない。そう思いながら携帯をポケットに戻そうとすると、また携帯が鳴った。アサコだった。番号を登録しておいてよかったと思った。ここは出ないでおこう。しかし、呼び出し音が四回、五回と鳴るにつれて、自分が酷く悪いことをしているような罪悪感を覚えた。僕はそれに負けて六回目の呼び出しで通話ボタンを押した。そして後悔した。
「もしもし、アサコ」
「あ、ああ」
「あのさ、今日これからって空いてる?」
「あ、今日はちょっと」
「明日は?」
「まだ分からないな」
「そうか…… じゃ、また電話するね」
「あ、ああ」
「ねえ、スグル」
「なに?」
「ホントに怒ってない?」
「怒ってないよ」
「よかった。じゃあね」
「あ、アサコ、あのさ、オレ」
僕がそう言ったときには、もう既に電話は切れていた。うなだれて溜息をついた。ふらふらと歩きながら携帯をポケットにしまった。途端に、またもや携帯が鳴った。僕は立ち止まって天を仰ぐと、目を瞑って携帯を取り出した。目を開けてディスプレイを見ると、本山さんからだった。今度こそ僕は携帯をポケットに戻すと鳴り止むまで待った。ようやく携帯が鳴り止むと、僕はまた歩き始めた。歩きながら、心の中で毒づいた。何が女難の相だ、馬鹿野郎。モテてるだけじゃないか。モテてどこか悪いんだよ。気がつくと、目の前から歩いてきたOLが、こちらをぎょっとした目で見ながら通り過ぎた。どうやらいつのまにか声に出てしまっていたようだった。僕は立ち止まってガードレールに腰を落とすと、煙草に火を点けた。頭上のビルの屋上辺りを目がけて煙を吐き出した。疲れていた。酷く疲れていた。どうしてそう煮え切らないの、というテンコの声がアタマの中で聞こえた。彼女が目に涙を浮かべた顔が浮かんだ。僕は足元に煙草を捨てて踏みつけると、ごめん、と呟いた。
15.
公団住宅の間の私道を通り抜けていると、頭上でカアという声が聞こえた。見上げると、いつかと同じように電信柱や電線の上にカラスの群れがとまっていた。僕は背筋が寒くなるのを覚えて、足早にそこを通り過ぎた。通りに抜けるところで、ふと足が止まった。いつぞやテンコが飛び出してきたところだ。結界、という言葉が何故かアタマにふと浮かんだ。もしかしたらこの通りを越えると、何かの敷居をまたぐように違う世界に入ってしまうのだろうか、とふと考えた。馬鹿馬鹿しい。僕は首を振ると、うつむきながら通りに一歩足を踏み出した。突然、キーッという凄まじいブレーキの音が聞こえた。驚いて顔を上げると、目の前にトラックがいた。窓が開いて、中年の男が顔を出し、馬鹿野郎、気をつけろ、と罵声を浴びせてきた。僕が一歩退くと、トラックはふたたびエンジンをかけて走り去って行った。遅れ馳せながらどっと冷や汗が出てきた。
部屋に着くと、エアコンのスイッチを入れてから、薬缶を火にかけた。ブラウンのミルのスイッチを回すと、例によって派手な音を立ててコーヒーの豆が挽かれていった。僕は鞄からシステム手帳を取り出すと、本山さんから借りた写真を、韓国製スリードアの冷蔵庫の真ん中にマグネットで留めた。湯が沸くまでしばらく写真の中で笑いかけるテンコを見ていた。
淹れたてのコーヒーをすすりながら、もう一度冷蔵庫の前に立って写真をまじまじと見た。何度見ても、どこから見てもテンコだった。僕が抱き締めて、そしてキスしたのは、確かに川島典子だったのだ。僕がこうやって現れるのを待ち焦がれているのは、もう既に死んだ人間なのだ。
なんてこった。
僕は死んでしまった人間に恋してしまった。もしかしたら僕はとんでもない馬鹿者なのだろうか? それとも、これがシホードーマサコや、例の坊主の言う、悪霊に取り憑かれた状態なのだろうか? この今の状態が災いって奴なのだろうか?
僕には何も分からなかった。自分のことなど分かりたくもなかった。ただ、この部屋に間違いなくテンコは現れた。僕が知りたいのはテンコのことだ。僕とテンコのことだ。僕らはこれからどうなるのだろう?
気がつくと、コーヒーを飲み干していた。煙草を吸おうとポケットを探ると、パッケージは空だった。小銭入れを持って、煙草を買いに行くことにした。携帯を一度手にしたが、結局部屋に置いていくことにした。今日はもう携帯はうんざりだった。
歩いて三分ほどのコンビニに辿り着くと、マイルドセブンライトを二箱と、それからペプシのペットボトルを買った。明るいコンビニの店内は、僕に現実というものを改めて思い出させるようだった。
コンビニから戻り、ドアに鍵を差し込んで鍵を開けようとしたが、そこでふと思い直して、階段を上って屋上へと上がった。誰もいない屋上はやけに殺風景だった。僕は通りと反対側の南側の手すりにもたれて、ペプシを飲んだ。見上げると、もう少しで満月になりそうな月が輝いていた。
暑い夜だった。もうすぐ本格的な夏が始まる。今年の僕の夏は、どんな夏になるのだろう?
僕はペプシをもうひと口飲んだ。
「何してるの? こんなとこで」
後ろから声が聞こえた。何故か僕はそれほど驚かなかった。先程ここに上がる階段を上りながら、ここで待っていれば彼女は現れる、という気がしていた。
僕は振り向いて笑った。
「待ってた」
テンコは僕の隣に来ると、並んで手すりにもたれて、月を見上げた。僕も一緒に月を見上げた。テンコは僕の手を握ってきた。僕は感触を確かめるように指を絡めて、それからテンコの額にキスをした。
「なあ」僕が声をかけると、テンコは「ん?」という顔で僕を見つめた。「今日本山さんにあったよ」
「カナコに? ヘンな子だったでしょ」
「ああ、ヘンな子だった」
「スグルはカナコのタイプだからな」そう言うと、テンコは握った指にぎゅっと力を込めた。
「なあ」僕は月を見上げたまま言った。
「なに?」
「相原って奴がそんなに好きだったのか?」
「カッコよかったのよ。でもカッコだけだった」
そう言うと、テンコは僕の手を握ったまま、下を向いて足元のコンクリートを蹴った。
「なんで自殺なんかしたんだよ?」
僕がそう尋ねると、テンコは夜空を見上げて、遠い目をして言った。
「なんでかなあ」
僕は絡めた指に力を入れて、何も言わずにテンコが話してくれるのを待った。ほんのりと涼しい風が吹いてきて、テンコの髪を揺らした。
「死にたくなっちゃったのよ」テンコは片手で髪を掻き上げた。「最初はね、有頂天だったのよ。あいつは演劇部でも一番人気だったし。なんか信じられなかった。付き合ってくれるって言ってくれたとき。好きだって言ってくれたのよ」
僕はとつとつと語るテンコの声を聞きながら、何故か僕とアサコのことを思い出した。
「だから堕ろしたのよ」
僕ははっとしてテンコの横顔を見た。その目には涙が滲んでいるようにも見えた。
「就職が決まって、もう卒業するって段になって、あいつは急に冷たくなった。喧嘩ばかりするようになった。そして、あれはいつだったかな、三月の初めごろかな、あいつが言ったのよ、オレは本当はゲイなんだ、だからきみとはもう付き合えないって」
カラカラと下の道を自転車の通り過ぎる音が聞こえた。僕はテンコの手を握っていない方の手で、ペプシをひと口飲んだ。そのままテンコにペットボトルを差し出すと、彼女はありがと、と言って喉を鳴らして飲んだ。
「なんか悲しかったなあ。それから悔しくなった。何故だか分からないけど、産めばよかったって思った。毎日毎日、そればかり考えてた。そしたらわたし、眠れなくなっちゃったのよ」
そこでテンコはペプシをもうひと口飲んだ。僕は空いている方の手で、買ってきた煙草のパッケージを取り出すと、口で封を切って、一本くわえて火を点けた。ジッポの炎が風で揺らめいた。
「それで医者に通い始めたのよ。医者は鬱病だって言った。鬱の薬と、眠るための睡眠薬をもらった。それでようやく眠れるようになったのよ」
テンコは弱々しく微笑んだ。僕が煙をゆっくりと吐き出すと、それは微かにたなびきながら駐車場の向こうに流されていった。
「医者に通うようになって、わたしはようやく普通の生活を送れるようになった。四月に入って、学校がまた始まって、あいつはもういなくなったし、あいつのことは忘れようと思った。実際、忘れかけてたのよ」
テンコはペットボトルをもう一度傾けて、それが空になったことを確認すると、手すりの上に置いた。
「それがあの日、見ちゃったのよ。学校の帰りに渋谷に寄って、道玄坂で。あいつが見知らぬ女の人と手を繋いで道玄坂を上っていくのを。キレイな人だった。わたしなんかよりずっとオトナに見えた。わたしは走って地下鉄の駅に飛び込んだ。吊革に捕まりながら、泣いている自分の顔が窓に映ってた。周りの人はどうしたんだろうって顔でわたしをちらちら見てた。わたしはなんで泣いてるんだろうと思った。なんであんな奴のために泣いているんだろうって。わたしは悔しかった。泣いている自分が悔しかった。そして、なんだか分からないけど、やっぱり産めばよかったって思った。駅に着くころには、もう死ぬことしか考えていなかった。駅を降りてからのことはあんまり覚えてない。気がつくと部屋の中で座り込んでた。わたしはひとしきり泣いた。それから、医者からもらった二週間分の睡眠薬と安定剤を、冷蔵庫のビールで飲んだ。受話器を取って、短縮ボタンを押したら、お母さんが出た。どうしたの、って言うお母さんに、ごめんねって言ったところで、急に意識が遠くなった。部屋の景色がぼやけて、目の前が真っ暗じゃなくて、真っ白になってくの。ああ、わたしは死ぬんだと思った。人間て簡単に死ぬんだなって思った。死んだら、わたしが産むはずだった赤ちゃんに会えるかな、なんて考えた。それからね、よく走馬灯のようにって言うじゃない。細切れにいろんなことがアタマに甦ってきて、それがだんだん子供のころに戻って行くのよ。わたしが覚えてるのはそこまでよ」
テンコは僕の方を向くと、はにかむように微笑んで言った。
「まったく、馬鹿よね。そんなくだらないことで死ぬなんて」
僕は短くなった煙草を最後に大きく吸い込んで、それから足元に捨てた。
「それで」僕は吸殻をスニーカーの底で踏みつけながら言った。「会えたの? 子供に」
テンコは弱々しい笑みを浮かべて首を左右に振った。それから僕の踏み消した吸殻をつま先で蹴飛ばして言った。
「たぶん、まだ小さ過ぎたのよ。意識もなんにも出来てなかったのよ。でも」テンコは僕の肩に頭を預けた。彼女の髪が風でなびいて、僕の頬をくすぐった。「その代わりにスグルに会えた」
僕は肩の上にあるテンコの頭に頬を寄せて言った。
「なあ」
「なに?」
「テンコは悪霊なのか?」
「なにそれ?」テンコはくすっと笑った。
「いろんなこと言う奴がいるんだよ」
「だったらどうする?」
テンコはそう言うと、顔を上げて僕の目を真っ直ぐに見た。僕はテンコを抱き寄せると、キスをした。僕らは舌を絡めて、吸い合った。
僕らは手を繋いだまま、キスを繰り返しながら屋上から降りた。
部屋の前まで辿り着くと、鍵を開けるのがもどかしかった。ドアが開いた途端に、僕らは靴を乱暴に脱ぎ捨てて、明かりも点いていない部屋に飛び込むと、そのまま暗い寝室へともつれ合うように辿り着き、ベッドに倒れ込んだ。
僕らは慌しく服を脱ぎ捨てると、抱き合って互いの唇を貪った。左手でテンコの乳房をつかむと、それは掌にちょうど収まるくらいの、以前想像したように形のいい乳房だった。人差し指と中指で乳首を挟むと、それは固く勃起していた。右手を臍の辺りに伸ばして行くと、陰毛の下の性器に辿り着いた。そこは暖かく湿っていた。テンコは唇を離すと、背中をちょっと反らせて、微かに喘いだ。僕はテンコの唇を追いかけて、舌を入れた。テンコはそれを強く吸った。
テンコの中は暖かかった。汗だくになった僕の背中に爪を立てて、テンコは反り返った。それから僕の腰に足を絡めて、首にしがみつくと、僕の右肩を強く噛んだ。
僕はテンコ、と叫びながら彼女の中に射精した。
僕らは手を繋いだまま、真っ暗な天井を見つめながら汗が引くのを待った。
僕は顔を横に向けると、「ねえ」と声をかけた。
「なに?」
「中に出しちゃったけど、大丈夫かな?」
テンコはくすりと笑うと、僕の目にキスをした。
「馬鹿ね、わたし幽霊よ」
いつのまにか、僕はそのまま眠ってしまった。
16.
蒸し暑さに目が覚めた。
隣に目をやると、当然のようにそこにはテンコの姿はなかった。僕は上半身をゆっくりと起こすと、溜息をひとつついた。時計を見ると、正午を過ぎていた。
ひとつ背伸びをしてベッドから起き上がると、カーテンを開けた。途端に、陽射しが一度に飛び込んできて、僕は思わず目を細めた。そこでふと、昨夜はカーテンを開け放したままだったことを思い出した。たぶん、テンコが閉めていってくれたのだろう。
エアコンのスイッチを入れると、風呂場に行ってさっとシャワーを浴びた。バスタオルで身体を拭きながら鏡を見ると、右肩には昨夜テンコが噛んだ跡が赤く残っていた。僕はもうそれを不思議だとは思わなくなっていた。左手でその跡をそっと触ると、僕は鏡の前を離れた。
朝食と昼食が一緒になった、トーストとコーヒーの食事を済ませると、リビングのソファの上で、頭の後ろに両手を組んで背伸びをした。テーブルの上に置きっぱなしの携帯が目に入った。充電しようとそれを取り上げると、ディスプレイに着信の表示が点いていた。着信履歴を見ると、アサコからの着信が二件あった。いずれも昨夜のものだった。念のために携帯の留守電を聞いてみたが、メッセージは残されていなかった。やれやれ、と呟くと、携帯を充電器に押し込んだ。
時計を見ると、まだ一時を回ったばかりだ。夜になるのが待ち遠しくてならなかった。やれやれ、これじゃあまるでドラキュラだ、と独りで苦笑した。ふと思い立って寝室に行くと、机の前に座ってパソコンの電源を入れた。
メールソフトを立ち上げてネットに繋ぐと、メールが四通届いていた。例によってアダルトサイトの紹介のダイレクトメールが一件、それから見慣れぬメールアドレスのメールが一件、菱川から一件、それと、タイトルも発信者も空白のメールが一件。
まず最初のダイレクトメールを削除して、次の見慣れぬメールアドレスのメールを開いた。タイトルは笑顔を表す顔文字になっていた。中身もなにやら顔文字で一杯だった。一行目を読んで、僕はげっそりした。
本山加奈子です。今日はごちそうさまでした。その後にお辞儀をしているらしい顔文字。取材うまく行くといいですね。その後にピースサインをしているらしい顔文字。わたしはもうすぐ夏休みです。またピースサインの顔文字。でも、まだ就職が決まってないので就職活動です。泣き顔らしい顔文字。またお時間あったら、今度はわたしの相談に乗ってやってくださいね。お辞儀の顔文字。携帯いつでもオッケーでーす。笑顔の顔文字。
その後に、名前と住所と電話番号が書いてあって、まだ下に続いているようなのでスクロールしてみると、字を組み合わせて作ったでっかいハートマークが現れた。僕は天を仰いで溜息をつくと、次のメールに移った。タイトルは「月曜日」。こちらは顔文字はひとつもなかった。一行だけのメールだった。
菱川です。例のゴハンの件、月曜日の夜が空いてるんだけど、どうかな?
僕はちょっと考えて、ま、仕方ないだろうな、と思って返事のメールを書いた。
月曜日の件、OKです。
送信ボタンを押すと、次のメールに移った。これも一行だけだった。
ありがとう。嬉しかった。
それだけだった。受信時刻を見ると、午前三時だった。僕はしばらくディスプレイに映る文字を眺めると、それからメールソフトを閉じた。
タマには自分でメシでも作ろうと、駅前のスーパーに出かけた。サラダ用の野菜や、味噌汁の具を買い込むと、結局メインのおかずは焼くだけのハンバーグにした。ついでにミネラルウォーターのボトルと、朝食用のパンなども買い込み、帰りは重たいポリ袋をぶら下げて帰ることになった。
冷房の効いたスーパーを出ると、ことさらむっと暑さが応える。もうすっかり夏の陽射しのようになっていた。スーパーの袋を持って歩くと、自然と額に汗が滲んでくる。ああ、もう夏なんだな、と改めて思った。
マンションの入り口までようやく辿り着くと、一階の郵便受けをチェックした。宅配のちらしがひとつと、自宅出張のファッションマッサージとホテトルのちらしがいくつか。ちなみに僕はゴミになるので新聞は取っていない。インターネットで事足りる。結局そのまま郵便受けの蓋を閉じると、ふうふう言いながら二階へと上がる階段を上った。
二階に辿り着いたところで、僕はスーパーの袋を持ったままフリーズした。
部屋のドアの前に、アサコがジーンズの膝を抱えてしゃがみ込んでいた。僕に気づくと、アサコは立ち上がってジーンズの尻をぱんぱんとはたき、首を傾げて、へへ、来ちゃった、と言って微笑んだ。
僕はスーパーの袋を手に、唖然としてそれを見ていたが、「お前なあ」と言うのが精一杯だった。額から汗が一筋、つーっと流れ落ちた。
鍵を開けながら、ま、上がれよ、と僕は声をかけた。内心ではしょうがねえなあ、と何度も呟いていた。アサコは僕に続いて玄関に靴を脱ぎながら、昨夜携帯に電話したんだよ、と言った。僕は、あっそう、と言いながら、先程の着信履歴を思い出していた。スーパーの袋を床に置きながら、冷蔵庫の写真が目に入り、僕はまずい、と思った。写真を隠すように冷蔵庫にもたれて立った。
アサコはハンカチで汗を拭いながら、眉を八の字にして、「迷惑だった? ね、迷惑だった?」と言った。
「い、いや、そんなことないけど」そう答えながら、アタマの片隅では何言ってるんだ、スグル、びしっと言ってやれ、という声が聞こえた。しかし、僕の口から出たのは、「突然現れるからびっくりしたんだよ」という言葉だった。
アサコは、よかったあ、と言って満面に笑みを浮かべると、床に置いたスーパーの袋を見て、ね、何買ってきたの、わたし作ろうか、と言って、ごそごそと袋の中を見た。
僕は冷蔵庫に背中を貼り付けたまま、いいよ、自分で作るから、と答えた。
アサコはハンバーグを手にして、僕を見つめると、不思議そうな顔をした。
「ね、何してるの?」
「別に」
「これ、冷蔵庫に入れないと悪くなっちゃうよ」
僕は、そうだね、と答えながら、背中に回した手で写真を取ると、気づかれないようにTシャツをめくってジーンズの後ろに押し込んだ。僕はようやく冷蔵庫の前から解放されると、暑いね、と言って寝室に入ってエアコンのスイッチを入れた。アサコは冷蔵庫に僕が買ってきた野菜やらを詰め込んでいた。
僕はキッチンに戻ると、しゃがんで冷蔵庫に向かっているアサコに、「暑いけどコーヒー飲む?」と声をかけた。
アサコは顔を上げると、「そうだよね、スグルはいつもコーヒーだもんね。飲むよ」と言って笑顔を浮かべた。
マグカップを二つ並べて、薬缶を火にかけると、例によってブラウンのミルで豆を挽いた。突然、アサコが後ろから背中に抱き付いてきた。僕は酷くびっくりしながら、「お、おい、暑いよ」と言うと、アサコは舌をぺろりと出して、「そうだね、ごめん」と言った。僕は「そっちの部屋にソファがあるから、そこで待ってて」と言うと、アサコは、はいはい、と言いながらようやくキッチンを出て行った。僕はふうと溜息をつくと、後ろを振り向いてアサコがいないことを確認すると、背中から写真を取り出して、食器棚の引き出しにしまった。
コーヒーの入ったマグカップを二つ持ってリビングに入ると、アサコはソファに座って物珍しげに部屋中を見回していた。
テーブルの上にマグカップを置くと、アサコはありがと、と言って、それをひと口すすると、おいしい、と言って微笑んだ。僕はマグカップを手に、床のクッションに腰を下ろした。
「ここ広いね」コーヒーを飲みながら、アサコは感心したように言った。「高円寺のときのボロアパートとは大違い」
「ああ、そうだね、確かに」僕はエアコンのない高円寺のボロアパートで、汗だくになってアサコと交わったことを束の間思い出し、苦笑した。
「高いでしょう、家賃?」
「それがそうでもないんだ」突っ込まれたらどうしようと、内心冷や汗をかきながら答えた。
「へえ、ラッキーじゃない」
幸いアサコはそれ以上家賃のことには触れなかった。僕はこの事態をどうやって収拾をつけようかと考えながら、煙草を取り出して吸った。ちらっとアサコの方を見ると、アサコはマグカップを手に満足そうにこちらを見ていた。困ったことに、やっぱりアサコはキレイだった。僕は困惑を覚えて、足元に目をそらすと、煙草をせわしなく吸った。お互いに言葉を発しないと、部屋の中に妙な緊張感が漂った。僕は気詰まりを覚えて、テーブルの上からリモコンを取ると、テレビのスイッチを入れ、ワウワウにチャンネルを合わせた。ブーンと音がしてブラウン管一杯にキスシーンが映し出された。濃厚なキスだった。僕は思わずごくりと生唾を飲んで、かえって墓穴を掘ったことを悟った。目には見えないが、アサコも生唾を飲んでいる気配がこちらにも伝わってきた。
「ねえ」顔を少し上気させたアサコが先に声を発した。「隣の部屋も見ていい?」
「ああ、いいよ」僕はほっとしながら答えた。
アサコは立ち上がると、隣の寝室へと消えた。僕は思いきり安堵の息を漏らしながら、手にした煙草がフィルター近くまで短くなっていることに気づき、灰皿で消した。
「ねえ、スグル」
隣の部屋からアサコの声が聞こえた。僕はリモコンでテレビを消すと、「なに?」と訊き返した。
「ちょっと来て」
今度はなんだよ、と思いながら僕は重い腰を上げた。
「なに?」
そう言いながら寝室に入ると、僕はまたフリーズした。アサコは一糸まとわぬ姿で、机の前の椅子に座ってこちらを向いていた。
「アサコ、いったい……」
ようやく声を発したときには、アサコは立ち上がって僕に抱きついて唇を重ね、舌を入れていた。僕のアタマは混乱の極みに至っていた。その間に、アサコは僕の短パンの中に手を入れて、ペニスをつかんだ。僕の脳の中で記憶を司る海馬は、僕の意志とは関係なく、勝手に昔のアサコとのセックスの記憶を引っ張り出してきて、ペニスを固く勃起させていた。アサコは唇を離すと、そのまましゃがんで膝をつくと僕の短パンを引きずり下ろし、勃起したペニスを口に含んだ。アサコの舌が巧みに亀頭に絡みつき、僕の脳には大量のドーパミンが溢れ出した。気がつくと、アサコの頭を両手で押さえて僕は目をつぶって快感に身を委ねていた。アサコはペニスを口に含みながら、片手で睾丸を握った。亀頭の先から根元まで舌を這わせると、また亀頭へと戻り、喉深くまでペニスをくわえた。僕は思わず、うっ、と小さく声を発した。射精寸前のところで、アサコはペニスを握ったまま口を離し、僕を見上げて、「ねえ、感じる?」と言った。
僕はそれがテンコの声に聞こえて、目を開けてアサコの顔を見下ろした。
そこにはテンコの顔があった。
僕は驚きのあまり、目を見開いて後退った。もう一度見ると、そこには僕のペニスを握ったまま、驚いた顔で見上げるアサコの顔があった。アサコは「どうしたの?」と言った。僕はアサコの両肩をつかんで立ち上がらせると、「ごめん」と言った。アサコは何が起きたのか分からない、という表情で、「なにが?」と訊いた。僕はアサコの両肩をつかんだまま、アサコの目を見て言った。
「アサコ、ごめん、オレ、他に好きな子がいるんだ」
アサコの目にみるみるうちに涙が溢れてきた。そして、声を震わせて、「そんな、酷い」と言った。僕は頬に涙をぼろぼろと落とすアサコを抱き締めると、もう一度言った。
「ごめん。ホントにごめん」
アサコは僕の胸に顔を埋めて、しゃくり上げていた。こぶしを握って僕の両肩を繰り返し叩いた。僕はアサコの小さく震える背中を擦りながら、いつまでも、ごめん、と繰り返した。そして、これでようやく僕とアサコは終わったのだな、と思った。
17.
ベランダの手すりに肘をついて、日が翳って行くのを見ながら煙草を吸った。
寝室には、まだアサコの女の匂いが残っていた。僕は日が傾くにつれて少しずつ陰影を深めて行く雲のように、自己嫌悪も増して行くのを感じた。この後味の悪さはなんだろう? 僕はアサコを傷つけてしまった。泣き腫らした目をして、肩を落として出て行ったアサコの後姿が、まだ鮮明に目に焼き付いていた。自分のせいだ、と思った。どうしてあのスパイラルカフェの時点で言えなかったのだろう? 僕はハナからよりを戻す気などなかったではないか。いたずらに彼女を傷つけてしまった、と思った。この優柔不断な性格のせいで。手にした煙草の先から、長くなり過ぎた灰がぽとりと落ちた。一年前、自分がそれ以上にアサコから深い傷を受けたことなど、どこかに行ってしまっていた。どこかでカラスがカア、と鳴いた。煙草を手すりに押し付けて消すと、駐車場めがけて放り投げた。オレは最低だ、と思った。吸殻はゆるい放物線を描いて、見えなくなった。
久々に自分で料理した夕飯を食べ終わると、少しはマシな気分になった。食べ終わった食器を全部シンクに放り込むと、風呂場でシャワーを浴びた。頭からシャワーを浴びながら、もうアサコのことは忘れよう、と思った。今日身体に沁み付いたアサコの匂いを全部流してしまおうと、もう一度全身に石鹸を塗りたくった。
バスタオルで頭を拭きながら、寝室に入ると、気のせいかまだアサコの匂いが残っているような気がした。僕はエアコンを切ると、腰にバスタオルを巻いて、窓を全開にした。ゆるやかな風が吹いている。机の上から煙草を取り上げると、一本抜いて口にくわえ、ジッポで火を点けた。ベランダに出ると、外はもう日が落ち切っていた。改めて見ると、夜でも雲がはっきり見えることに気づいた。それに比べて、星の数は数えるほどしか見えない。やっぱり東京の空だな、と思った。
煙を夜空に向かって吐き出しながら、ふと思った。考えてみると、この一週間、やたらといろんなことが起きているように思えた。テンコが僕の部屋のドアチャイムを鳴らしてから。突如として忘れかけていたアサコが現れて、そして去って行った。菱川果林に本山加奈子。やっぱりこれはシホードーマサコが言うように、女難なのだろうか? そして、それを呼び寄せているのは、テンコなのだろうか? 考え過ぎたぞ、スグル。僕は自分に言い聞かせた。テンコがこのゴタゴタを呼び起こしたにしろ、それに自ら飛び込んでいるのは僕自身なのだ。これは自分自身が望んで飛び込んでいることなのだ。アサコを傷つけたのも、自分自身の性格が生んだ必然なのだ。そう思いながらも、自分でも気づかないうちに全てを飲み込んでしまうような、大きな流れの中にいるような気がした。
ドアチャイムが鳴ったのは、十時を回ってからだった。僕はドアスコープを覗くこともなく、鍵を回してドアを開けた。そこには想像通り、テンコが両腕を組んで、頬を膨らませて立っていた。
「ごめん」
僕は先に謝った。僕にはなんとなく分かった。テンコには少なくとも、この部屋で起こったことは分かるのだ。テンコは膨れっ面のまま、黙って靴を脱ぐと、つかつかと部屋に入っていった。ドアを閉めて振り返ると、テンコは寝室のベッドに腰をかけていた。僕は、申し訳ない、という言葉を顔中に貼り付けると、寝室に入っていった。
机の前の椅子を百八十度回転させて、テンコと向かい合うように座ると、もう一度「ごめん」と言った。テンコは膨れっ面を止めて、悲しげな顔をして言った。
「そんなに謝ってくれなくてもいい」
「どうして?」僕は身を乗り出して訊いた。
「たぶん、わたしのせいだから」そう言ってテンコはうつむいた。
僕はさらに身を乗り出して、テンコの額の生え際にキスして言った。
「オレのせいだよ」
テンコは激しくかぶりを振ると、僕にしがみついてきた。そして、ごめんね、と言った。
「なんでテンコが謝るんだよ」
テンコはそれには答えずに、僕の腰に顔を埋めると、僕の短パンに手をかけて下ろし、ペニスをくわえた。僕は一生懸命舌を動かすテンコの頭を見下ろしながら、何か切ないものを見ている思いがした。
テンコはペニスから一旦口を離すと、顔を上げて「わたしだって出来るんだから」と言った。その目には涙が光っていた。テンコは固く勃起した僕のペニスをふたたびくわえると、激しく舌を絡めて、頭を前後左右に振った。僕は目を閉じて、その快感にしばらく身を委ねた。
僕らは何度も体位を変えて交わった。僕は二度射精した。二度目は彼女にせがまれて、口の中に射精した。テンコは喉を鳴らしてそれを飲み込んだ。
終わった後、お互いに全身に汗を浮かせながら、僕らは抱き合っていた。僕の胸に頭をもたせかけたテンコの首筋に、ほくろをひとつ見つけて僕はそれにキスをした。
「ねえ」
テンコが呟いた。僕はテンコの髪を撫でながら、なに、と訊いた。
「もうすぐ誕生日なの」
「テンコの?」
「うん」
テンコは上半身を起こして僕を見下ろすと、唇と左耳と右の眉毛にキスをした。それから泣き顔のように眉をひそめて言った。
「でもわたしは年を取れないの」
それは本当に悲しそうな目だった。僕は彼女の両頬を手で挟んで引き寄せると、唇を重ねて舌を絡ませた。長いキスが終わると、テンコは僕の胸の上に顎を乗せて言った。
「スグルの誕生日っていつ?」
「来月の二十日」
「それまで一緒にいられるかな?」
「いられるさ」
僕はそう答えてみたものの、言い知れぬ不安が胸の中を埋めていた。テンコの目から涙が一粒こぼれ落ちた。
「もう行かなきゃ」
そう言うと、テンコは服を着始めた。僕は上半身を起こすと、「どうしても?」と尋ねた。
「どうしても」そう言ってテンコは寂しそうに笑った。
着替えを終わると、テンコはじゃあね、と言って玄関に向かった。僕はベッドの中からその背中に声をかけた。
「明日も来るだろ? テンコ」
テンコは振り返ると、うん、と言って満面に笑みを浮かべた。そして、ドアを開けて夜の中に帰って行った。
僕はベッドのヘッドレストに上半身を寄りかからせると、煙草に火を点けた。カーテンの隙間から漏れる月明かりの中に、うっすらと煙が漂った。僕はそれをぼんやりと見つめながら、さっきテンコが口にしたことを考えていた。
でもわたしは年を取れないの。
それはいつか自分も考えたことだった。このままでは自分だけどんどん年を取って、いつかはよぼよぼのジジイになってしまう。テンコはいつまでも今のテンコのままだ。それは考えれば考えるほど切ないことだった。僕は知らぬ間に自分の頬を涙が伝っていることに気づいた。
僕はいったいどうしたらいいんだろう?
何もいい解決策は思いつかなかった。何か大きな川のようなものがあって、それが渡れないでいるような気がした。僕は煙草を灰皿に押し付けると、両腕を頭の後ろに組んだ。
いずれにしろ、テンコはもう死んでいるのだ。
僕はテンコが屋上で語った自殺の理由を思い返した。それは考えようによっては、酷く馬鹿馬鹿しい理由のようにも思えた。しかし、いったいどれだけの人間が、納得の行く理由をもって自殺していると言うのだ。そもそも人生を途中で終わらせてしまおうなどと考える人間は、傍から見れば不条理の中でもがいているようなものだ。ちょうど今の僕のように。
僕のように?
何かそこに糸口のようなものが垣間見えた。しかし、それはあまりにも頼りなくて、すぐに消えてしまった。僕は諦めて煙草をもう一本くわえて火を点けた。
煙を吐き出しながら、テンコを自殺に追いやった相原という男のことを考えた。本山さんが持っていた集合写真の顔を思い浮かべた。テンコがあんな男の子供を何故産みたいと思ったのか、僕には理解出来なかった。それは、テンコが自らの命を絶ってしまったことと同様にどこか曖昧で不可解なことだ。しかし、恐らくそれはそういうものなのだ。僕は男であり、けして身篭った者の気持ちは分からない。灰皿に灰を落とすと、もう一度深く吸い込んで煙を吐いた。いつかの夜、テンコが地縛霊だとしたら思い残したものはなんだったんだろうと考えたことを思い出した。それがあの相原という男のことだとしたら、くだらな過ぎる。そう考え始めると、むかむかと腹が立ってきた。テンコを死に追いやった男。僕とテンコの間に大きな川を作ってしまった男。そして、テンコが産みたいと思った子供の父親。僕は無性に腹が立った。恐らくそれは嫉妬であり、自分が何者ともしれない男に嫉妬していることにも腹が立った。一度会ってみないと気が済まない。とにかくどんな奴か見てみたい。そう思い始めると、それは抑えようもない欲求として僕を突き上げた。僕は苛立たしげに煙草を灰皿に押し付けると、ベッドから起き上がってカーテンを開けた。外はそろそろ白み始めていた。鳥の鳴く声が聞こえる。もう眠れそうになかった。キッチンに行ってコップにミネラルウォーターを満たすと、ごくごくと喉を鳴らして飲んだ。
もはや一日が始まりかけている。もう月曜日なのだと思うと僕はやり場のない焦燥を感じた。また一週間が始まり、僕はいつものように会社に出かけ、仕事をし、時折ちょっとだけさぼる。それを繰り返して僕は年を取って行く。僕はもう一杯水を飲んでから、Tシャツと短パンを穿いて、ゴミ袋に部屋中のゴミを詰め込むと外に出た。昇り始めた太陽が空を染め始めていた。一階まで降りると、マンションの脇のゴミ置き場にゴミ袋を置いた。カアという声と羽音が聞こえて僕は振り向いた。マンションの角の電信柱に、そこから伸びる電線に、そして隣家の壁の上に、無数とも思えるカラスがとまっていた。僕はひとつ身震いをすると、部屋に戻った。
18.
奇跡的に目覚ましの音で目が覚めた。気がつくとまたベッドにもぐり込んで寝てしまったようだ。寝不足のせいで頭痛がする。今日は隔週の月曜日に行う会議のある日なので、遅刻するわけにはいかない。油断すると遠ざかって行く意識を無理矢理引き戻すと、ベッドからよろよろと起き上がった。
ホームで電車を待っている間も、眠気でくらくらした。ようやく構内に電車が入ってくるのをホームの端で見つめていると、突然眩暈がした。足元がふらつき、ぐらりと前方によろめくと、線路が目に入った。電車の警笛が大きく鳴った。僕は体勢を立て直すと、どっと冷や汗をかいた。
いつもに増して混み合う田園都市線の吊革に捕まりながら、窓に映る自分の顔を見た。それは酷くげっそりとやつれていた。おまけに目の下に隈までできていた。ふとシホードーマサコのことがアタマに浮かび、これが死相というものだろうかと思った。
必死の思いで辿り着いた割には、会社に着いてみるとまだ二三人揃っていなかった。部長の坂崎は、先に行ってよう、とその場にいる者に声をかけた。営業部の会議と言っても、せっかくある会議室を使わずに、会社の裏手にある喫茶店で行うのが習慣になっていた。おまけに、みんなでモーニングサービスを食べる、というのも習慣になっていた。要するに、どうせ会議をやるなら経費で食べながらのんびりやろう、ということらしかった。頭数が揃った時点で、適当にひとりずつそれまでの経過を報告して、それから今後の予定を確認すると、会議らしき部分はあっという間に終わった。後はおのおのスポーツ新聞を読んだり、だべったりしてだらだらと昼近くまで過ごす、というのがこの部署の会議だ。僕は早速目の下の隈のことをみんなに突っ込まれたが、土日に酷い風邪ひいちゃって、となんとかごまかした。僕は今週の予定をシステム手帳に書き込みながら、明日の夕方に医者の予約を入れていたことをようやく思い出した。そう言えばそうだった。どうしよう。いまさら自分が幻覚を見ているかも、などと相談してもしょうがない気がした。僕の中ではとっくに幻覚ではない、という結論が出ている。まあ、放っておくか、と僕はシステム手帳を閉じた。
昼近くなって会社に戻ると、眠気がどっと襲ってきた。トイレで顔を洗うと、少しはマシになった。一緒にメシ食いに行こうという小森たちの誘いを断って、大方が出払ってから独りで昼食に出た。会社の人間に出くわさないように、六本木の交差点を越えた裏手の方の喫茶店に入った。ひとまずランチを頼むと、店内にある電話ボックスに入った。備え付けてある電話帳を開くと、目当ての番号を探し出し、ブースの中に置いてあったアメリカンエキスプレスのメモに書き留めた。それを破ってポケットに入れると、席に戻ってランチを食べた。
食後のコーヒーを飲みながら、ポケットから先程のメモを引っ張り出し、携帯の番号ボタンを押した。通話ボタンを押して呼び出し音を聞きながら時計を見ると、一時ジャストだった。昼休みでいないかもしれないな、と思っていると、電話が繋がった。受付嬢らしき女性の声が出た。僕は名前を告げて、宣伝部の相原さんをお願いします、と言った。お待ち下さい、と返事があって、保留音の代わりに新曲の宣伝が流れた。僕はナントカというバンドの宣伝文句を聞きながら、コーヒーをひと口飲んだ。程なく、先程の女性の声が出て、申し訳ありません、相原はただいま会議中でございます、と答えた。何か伝言がありましたら、という女性の声に、後程またかけ直します、と言って電話を切った。ふうと息をひとつ吐いた。相変わらず眠気は襲ってきたが、それ以上に今日の僕はアドレナリンが全身を駆け巡っていた。
どうやらようやく梅雨が明けたらしい炎天下を歩いていると、くらくらと眩暈がした。僕は門前仲町の駅前のガードレールに腰を下ろすと、ハンカチで額の汗を拭った。煙草をくわえて火を点けると、時計を見た。三時だった。携帯を取り出すと発信履歴を呼び出して、相原の会社にかけた。先程と同じ女性の声で、お待ち下さい、と言われ、また同じプロモーションが流れた。
「はい、相原です」
今度は繋がった。いかにも演劇をやっていた、という通る声だった。
「安川と申します」
「失礼ですが、どちらの」
「フリーのライターです。取材をお願いしたいんですが」それから僕は音楽雑誌の名前を挙げた。「明日の午後はどうです?」
「分かりました。三時ごろだったらなんとか…… あの、アーティストはどの」
「じゃあ三時にそちらにお伺いします」僕は間髪を入れずに言った。
「分かりました」相原は声に少々戸惑いの色を交えながらも答えた。
僕は相手に深く突っ込まれないうちに電話を切った。煙草を深く吸い込んで、安堵の息と共に煙を吐き出した。さてと、と声に出して腰を上げようとすると、携帯が鳴った。ディスプレイを見ると、菱川からだった。そこで僕はようやく昨日のメールを思い出した。僕はやれやれ、と呟きながら通話ボタンを押した。
「もしもし、まさか忘れてないでしょうね?」
「まさか」
「ならいいけど。どうする? わたしは七時過ぎなら大丈夫だけど、どこかいい店知ってる?」
「そうだな…… そしたら七時半に渋谷でどう?」
「いいわよ。渋谷のどこ?」
「えーと、モアイ像の前」
「オーケイ。じゃ、七時半に」
「じゃあ」
通話ボタンを切ると、僕は大きなあくびをひとつした。