亡霊

9月13日、金曜日。

今日もあまりいいことがなかった。むしろ失望することの方が多かった。考えてみると、田舎の実家に戻ってからこの方、途轍もなく酷いことばかり続いたことはあったが、いいことはほとんどなかったか、あるいはあってもあまり覚えていない。気がつくとずっと独りだ。

今日はすべてを賭けたつもりで相場のポジションを取ってみたが、結局申し訳程度のプラスになったところで利食いした。でも結果的にそれがベストだった。何故ならそもそもその時間帯のポジションの取り方自体が間違っていたのだから。要するに酷い間違いをせずに済んだというだけだった。今のところ、そういうこともよいことにカウントしないと、いいことなんて何もない。ちょっとした希望を抱くと、それは結構な失望に変わってしまう。しかしながら、なにがしかの希望や期待を抱かないことには何もできない。たぶん幸運というものは、ただひたすら待っているだけではやってこないのだろう。この6年あまり、僕はただ待っているだけなのだ。待つのが一番苦手だというのに。ときどき、自分が一体何を待っているのかすら分からなくなる。たぶんそれはそれほど大層なものではない。例えて言えば、あなたの返事ひとつだったりする。

例え話として亡霊の話をしよう。彼女の名前は旧姓コンノトヨコという。小中学校の同級生だったが、彼女はその奇妙なおかっぱ頭のせいで目立たない女の子だった。だがちょっと気になっていたのは、よく見ると案外と整った目鼻立ちをしていたからだが、当時の僕はそれも気のせいだと思っていた。先日、6月1日の中学の同級会で、彼女と20年ぶりに会った。というか話をしたわけでもないので正確に言えば見かけた。その前に彼女を見かけたのは20年前にたまたま帰省したおりに地元のどこかのスーパーの出口でだった。そのとき彼女を見かけたのは中学卒業以来25年ぶりで、しかもまったく親しくもなかったのに、一発でコンノさんだと分かった。彼女の面影は中学のころとちっとも変っていなかった。同級会の日の日記にも書いたが、それから20年ぶりに彼女に会って驚いたのは、20年前よりもさらに美しくなっていたことだ。彼女は間違いなく美しかった。とても還暦には見えなかった。結局またしても彼女と一言も交わすことはなかった。同級会の帰り道に僕はそれを後悔して、今度どこかのスーパーで見かけたら、名刺を渡そうと思った。そして今度こそ話しかけてみようと思っているのだが、案の定あれ以来一度も姿を見かけることはない。考えてみると彼女と話した記憶は一度もない。本当にゼロなのかは定かではないけれど、限りなくゼロに近いだろう。そしてさらに考えてみると、中学を卒業して以来、コンノさんが僕の前に姿を現したのは20年前と今年の6月の2回だけだ。正確に言えば22.5年に一度しか姿を現さない。そう考えるとまるで亡霊だなと思った。これまでの習いでいくと、次にコンノさんに会えるのは20年後か25年後ということになる。まず第一に、そこまで自分が生きているかという問題もあるけれど、例え会えたとしてもそのときにはもう彼女は美しい亡霊ではなくなっているだろう。見かけるのではなくリアルに会えたとすれば。たぶん、亡霊というのはそういう存在なのだ。

書いてみるとあまり例え話にはなっていないような気がする。簡単に言うと、僕らはいつも幻影を追い求めているようなものだ、ということ。希望は欲望でもあり妄想でもある。それが現実化してリアルになって初めて、いいことになる。つまりいいことというのはこの目で見て、この耳で聞いて、この手で触れられるものなのだ。

だとすると、いいことというのはネット上には存在しないものなのだろうか? ネット上にしかないものはリアルじゃないのだろうか? それとももはやすべてはネット上に存在するのだろうか?

僕に分かるわけがない。何故なら、僕はあなたが存在していることすら知らないのだ。

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煙草でも吸おう。

今日の夢は巨大なレコード会社のビルであちこち移動して打ち合わせをする夢だった。それは自分がかつて勤めていたレコード会社よりも遥かに巨大で洗練されていて近代化されていた。まるでショッピングセンターのようだった。この、巨大なショッピングセンターのような建物の中にいるという夢をよく見る。これは何かのメタファーなのだろうか。だとすると何を示唆しているのだろうか。そういえば以前はもっとこぢんまりとしているが複雑な構造の建物の中にいる夢をよく見た。

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