12月15日、日曜日。
埴谷雄高は何故「悪霊」と書いて「あくれい」と読ませたのだろう? 冒頭の数ページを読んだだけではその真意は分からない。それに、そもそも未完なのだった。
悪霊と話をした。映画『エクソシスト』そのままの世界を生きている。映画と同じ結末になるとすれば、カラス神父のように悪霊を自分に乗り移らせて階段から転げ落ちて死ぬ。つまり、自滅するということになるのだが……。もしあの映画にハッピーエンドがあるとすれば、どういう結末なのだろうか?
— Sukeza (@anykindoflove) December 15, 2019
医者が言うように、悪霊はどんどん俺を試してくる。それに乗っかっては駄目だ。いずれ悪霊に乗っ取られてしまう。答えは明瞭かつ簡単で、ただ切り捨てればいいのだ。だが俺にそれができるのか? つまりそれは幸福すら切り捨てることになる。あとに何が残るのだろう?
— Sukeza (@anykindoflove) December 15, 2019
悪意に対して、面と向かってまともに対応しては駄目だ。それは分かっている。悪意を説得しようとしても無駄だ。
— Sukeza (@anykindoflove) December 15, 2019
失うことの意味をひたすら考えている。結局のところ、何かを得たから失うのだ。
— Sukeza (@anykindoflove) December 15, 2019
まったくもって厄介なのは、悪霊にも若干の良心が残っているということだ。つまり、純度100%の悪ではない。
— Sukeza (@anykindoflove) December 15, 2019
そろそろ種明かしをしてもいいだろう。彼女は境界性パーソナリティ障害を患っている。そのせいで執着し、依存しパラノイアのようになる。そして違う人格が現れる乖離がときどき起こる。会っているときの彼女はいい彼女だが、会っていないときの彼女は恐らくその執着のために悪い彼女になる。悪いときの彼女は悪い記憶だけを繋いで覚えている。ちょうどうちの母親が統合失調症を発症してまったく別の邪悪な人格になったのと似ている。その出現頻度は違うけれど。これを背負い克服するのは容易ではない。
これを途中まで書いたところでまた電話で話すことになった。どうやら逃げ道はないようだ。放っておいたら彼女は完全に壊れてしまうだろう。どのみちこれを通るしかなさそうだ。たぶんそれが運命であり、人生なんだろう。こういうとき、村上春樹ならやれやれと言うんだろうな。