6月14日、水曜日。
9時42分起床。音楽を作る夢を見た。
昨日からのことの成行を語らねばなるまい。まず、昨日の午後に母の部屋で面会をした。予定では窓越し面会だったが、午前中の母の血圧が70台に下がったというので、部屋で面会することになったのだった。
問題は面会が終わったあと。担当職員と看護師が話があるというので別室で話をした。彼らが言うには、母はものを食べたり飲んだりするのが相当大変になってきているので、特老としては看取り介護として見ていく時期にさしかかったということだった。それで、療養型の病院に移すことも検討して欲しいということだった。特老では点滴等の医療措置を施すことができないので。
これが自分にとっては相当にショックだった。看取り介護ということは、ただ死ぬのを待つだけという意味だと思った。要するに母はもう長くはないのだということを遠回しに言われたわけである。毎朝仏壇の父にお願いしているので、母は100歳まで生きるのだと思っていた。数年前に亡くなった伯母も95歳まで生きた。こういう話がもう出てくるというのは、本当にショックだった。
帰宅して、病院に移るケースの場合を調べた。役場に電話したり病院に電話したり。看護師の話によると水を飲むことすら一苦労だというので、もはや病院に移すしかないと思い込んだ。少なくとも病院では点滴を受けられるし、食べられなくなっても鼻から管を入れて食物を胃に入れたりできるから。
とにかく仙台の弟と相談しなくてはというので、弟が会社から帰宅する頃合いを見計らって電話をした。このときの自分の心境としては、もう母を病院に移すしか選択肢はないのだと思っていた。ところが弟の歯切れが悪い。何やらもごもごと自分の考えを述べられないでいる。それで、一体何が引っかかっているのか訊ねてもはっきりしない。それで弟は大事なことだから考える時間をくれと言った。
電話を終えた後、僕は怒り心頭だった。看取り介護か病院の二択しかないのに何を考える必要があるのか?と。つまり、看取り介護を選ぶということは、ただ食べられなくなっていくのを見守るしかないということだから。凄まじい怒りだった。
電話をかけていたのは台所だったので、書斎の机に戻って考えた。俺もヨウタロウのように穏やかでおおらかな人間でありたかった、と思った。すると、怒りは次第に収まっていった。
弟から電話がかかってきた。勤めて穏やかに話そうと思った。弟はやっぱり病院に移す方がいいと思うと言った。弟はまったく感情的になっていなかったし、言葉に何の含みもなかった。電話を切った瞬間から僕は泣いた。何が悲しいのか、母が哀れなのか、とにかく涙がいつまでも止まらなかった。父の葬儀のときに喪主挨拶で途中からボロボロに泣いてしまったことを思い出した。
職員と看護師が、とにかく母が食べるのにどれぐらい苦労しているのか見て欲しいと言うので、一夜明けて今日の昼食時に特老に行った。それで、母から見えない場所から母が昼食を介護されて食べるのを見た。
それを見ているうちに、昨日あれほど病院に移すしかないと思っていたことが、それほど簡単な話ではないことに気づいた。ここではこうやって付きっ切りで食事を食べさせてくれる。しかし、病院ではそういうことはないだろう。確かに点滴などの措置は受けられるだろうが、今病院に移せば母は間違いなく寝た切りになり、衰弱するだろう。それはよろしくないことなのだと思った。
食事を終えたころ(といっても母は半分も食べられなかった)、母のところに行って顔を見せた。母はしばしば目をつむるので眠いのかと訊いたら眠いわけではないと言う。それから職員は母を部屋に移動し、二人がかりでベッドに寝かせた。こういうことも病院では毎食事にやってくれないだろう。
母と少しだけ話をして、それから一階に降りて玄関のところで職員と話をした。看取り介護になったら今やっているようなことをやらなくなるというわけではないことを確認した。それに、今すぐに看取り介護にするというわけではなさそうだった。
もう少しこのまま特老にいさせてくれるように僕は言った。それで食事が困難になるようだったら病院に移したいと。今でも困難な部類ではあるのだが、それ以上に困難になったら、という意味だ。申請して即病院に移れるわけではないので(少なくとも二週間は待たなくてはならない)、そういう判断を担当職員がするのも難しいかもしれない。だが、今の母を病院で寝た切りにさせたくはないという気持ちの方が勝った。
特老から帰宅しても、しばらくいたたまれなかった。一刻も早く弟と話したかったのでLINEをしたら、3時過ぎなら少し話せるということだった。
僕は極限まで疲れ果てていた。昨日一日だけで体重が400g減った。ソファで毛布をかけて横になり、弟の電話が来るまで少し寝ることにした。
3時過ぎに弟から電話がかかってきた。ことの次第を伝えたら、弟も同じ意見だった。
そんなわけで昨日から心身ともに疲れ果てているし、うつも酷い。自分がこれからどうすればいいのか、そういうことを考えるだけで憔悴する。
母は晩年の父のように瘦せ細ってしまった。これは誰しもが通る道なのだということは分かっている。ヨウタロウは昨年お母さんを亡くして両親とも鬼籍に入り、今は実家の整理をしている。I泉さんに至っては小学生のときに事故で家族全員を亡くして天涯孤独になっている。僕はまだ恵まれている方なのかもしれない。それでも母が哀れで仕方ない。
10年前に父が亡くなったとき、母はこれから二人で生きていこうと僕に言った。じゃあ長生きしてよ、と僕が言うと、長生きするよーと答えたのだった。あれから10年、母が特老に入って9年が過ぎた。時は容赦なく過ぎ、人は容赦なく老いる。この9年間、俺は何をしてきたのだろうと思う。9年分の記憶はないが、間違いなく9年という時が過ぎたのだ。
笑えるようになるまで、しばらく時間がかかりそうだ。