半沢直樹、懲役人の告発

7時ごろ起床。起きたのもそうだけれど、最近何時に寝たのかよく覚えていないのだが、たぶん2時半ごろ。当然寝不足なわけで。おまけにどうやら朝薬を飲むのを忘れたっぽいのだが、確信はない。

母の状態は相変わらずあまりよくないのだが、どうも家にいても何も出来そうにない気がして午前中だけ業務。

今日はお彼岸の中日、弟が昼前に仙台から来る。半日母の相手をして、夕食時に帰っていった。僕はといえば、昼食後に1時間ばかり昼寝をしたらかえって具合が悪くなり、3人で墓参りに行ったころが調子最悪。墓誌には無事父の戒名が彫ってあった。夕方精神科。薬は変わらず。というか、近ごろあまりにも疲れ果てていて、自分の状態を把握出来ていないし覚えてもいないのでロクに医者に説明も出来ない。

夜は夕食後になでしこ×ナイジェリア、2-0を見て、そのまま一応世間の話題についていこうと最終回だけ「半沢直樹」を見た。うーむ。いかにも続編やら映画やらがありそうな予定調和的エンディング。最後だけ見て言うのもなんだけれど、僕はやっぱり同じ枠なら「仁」の方が好きだ。主演の堺雅人の笑顔が貼りついたままみたいな表情は、銀行員というものを意図的に表現するためだろうか。かなりデフォルメされたドラマではあるけれど、銀行員である弟はこういう世界に生きているのだろうかなどと考える。弟は先日所長(支店長みたいなもの)になったらしい。

そうしているうちにも母の状態はどんどん悪くなり、なでしこの試合のハーフタイムに風呂を洗ったのだけれど、「半沢直樹」を見終わるころには母が風呂に入るのが嫌だと言い始める。もうキレるのは止めることにしたので、すべてを受け入れることにした。以前、fragmentsに、恋することは求めること、愛することは受け入れることというようなことを書いたけれど。辛抱強く待っていると、ようやく母が風呂に入り、11時過ぎに床に就いた。その間、ずっと母を見ていたけれど、母が寝入るのをベッドの脇で見守っているうちに涙ぐみそうになり、高校生のころ、祖母が亡くなる前の晩に何故か大泣きしたことを思い出し、これではまるで最後を看取っているようで縁起でもないとこらえた。

そんなわけで椎名麟三「懲役人の告発」読了。面白かった。ストーリー自体も抜群に面白いのだが、研ぎ澄まされた文体、絶妙な暗喩。今絶版になっているのが不思議だ。スマホだメールだと出てくる今の小説よりも、昭和の小説の方がしっくり来るのは僕が歳を取っただけなのだろうか。この小説は口語体で会話は大阪弁、けして難解な文体ではない。たぶん、今の時代のディテイルの軽さに僕は嫌気が差しているのだと思う。箱裏の同時代の作家の感想や、付録の野間宏との対談とかを読むと、自分が実は非常に頭が悪いのではないかと思ってしばし悩んだ。彼らに比べると僕の思索も考察もあまりにも浅く、語彙が貧困だ。そんな風に考えると、どうも今に始まったわけではなく、自分がいままで思っていた以上に頭の悪い人間に思えてくる。中学のときの全国模試でたまたま全国で100番以内に入って以来、僕はずっと勘違いしてきたのではないだろうかと思った。で、出来ることならずっと勘違いしっ放しだった方が幸せだったのではないかと。松任谷のディレクターをしていたころ、雑誌に少数精鋭と書かれ、実際に日米の一流の人たちと仕事をして、彼らと仕事をしているとそれが当たり前になる、という感覚を当時覚えていた。それはつまり、自分が一流になったというよりも、むしろ一流というのはこういう環境に身を置けば自然なことなのだとそのころは思っていた。しかしながら、僕は自らその幸運を手放してしまった。云々。しかし、人間というものは急に上がったり下がったりなどするはずもなく、そう見えたりそう思えるのは客観性と主観性が交互にそのときそのときで入れ代わり立ち代わりしているせいなのだろう。結局は人生や幸せなんていうのも、思い過ごしは恋のうちに集約されてしまうような、勘違いの集積なのではないだろうか。

なんかだんだん話がずれていったけれど、素晴らしい小説なので機会があれば一読をおすすめしておこう。

今日の煙草は21本。今日はほとんど何もしていないけれど、もう今年は捨ててもいいかな、と思い始めた。母の状態に一喜一憂するのも、一年捨てることを思えば1ヶ月ぐらいどうってことはない。そういう風に思おうと。母にもそう言ったけれど。


椎名麟三「懲役人の告発」


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