怒りと苛立ち

夕食後、また母に怒鳴り散らしてしまった。またしても、デイサービスに行った帰りは母の調子が悪くなる。茫然自失といった感じで反応が異常に鈍く、ぼうっとしている。返事すらロクに出来ない。最近調子がよくなくて入院を勧められているくらいだから、デイサービスの回数を増やすように依頼しているところだが、これではむしろ行かない方がいいのだろうか。

それにしても、怒りとか苛立ちといった感情は何故あるのだろうか。一体何の役に立つというのだろう。ただ破壊するだけで何も生産しない感情が。これまた、偏桃体が関係しているのか。ストレスに対する反応として存在するのか。だが、後に残るのは消耗だけだ。

確かに、小説や映画、ドラマといったものにおいては、怒りや苛立ちは読み進めたり見続けるための推進力とはなり得る。つまり、先に待ち受けているカタルシスのための伏線として。しかし、そういったフィクショナルなエンターテインメントではなく、現実世界では必ずしもカタルシスに帰結するとは限らない。むしろそうではない場合の方が多い。単なる悲劇である。

一昨日から偏桃体によるストレスホルモンの作用というものを意識てはいるのだが、だからといって実際にリアルタイムでコントロールすることは困難だ。自分とは異なる反応を示す人間を見るとどうして苛立ってしまうのか。それを克服することが仏教でいう悟りの境地なのか。あるいは、キリスト教のようにすべてを受け入れ、赦すべきなのか。しかし、延々と微動だにせず無反応な人間に対して、永遠に寛容でいる、受け入れ続ける、赦し続けることは果たして可能なのだろうか。それと単なる鈍感とはどう違うのか。寛容とは、限りなく感覚を愚鈍にすることなのか。

苛立ちや怒りを覚えた後は実に嫌な気分になる。爽快感は微塵もない。結局僕は母に謝る。そこから再スタートである。やり直し。今度はひたすら我慢する。すべてを受け入れる。じっと待つ。あるいは放置する。むしろその方がマシだと思えるときは。

数日おきの周期で苛立ちや怒りといった感情が僕を振り回す。繰り返しである。これは僕の学習能力が足りないのか、それとも僕の人間性の問題なのか。つまり、単に人間が出来ていないだけなのか。

せっかくの週に一度、半日母から解放される日であったが、業務も不ヅキで徒労に終わり、帰宅しても特に何が出来たというわけでもなく、夕方はまた2時間以上昼寝(朝ゴミを出すために早起きしたので睡眠不足だった)、一日を無為に過ごしたという感がする。業務はまだいい。ツキというものはどうにもならないし、長い目で見れば無駄とも言えない。しかし、どうして一人の時間を有効に使えないのだろうか。結局、僕は母に対して苛立つ以前に、自分自身に対して苛立っていたのではないだろうか。

今日の煙草は21本。夜になって増えた。どうしてもストレスが。頭をクリエイティブや生産的な方向に切り替えられない。怒りは本当に一日を台無しにする。

シャワーを浴びたら、久しぶりに楽器でも弾こうか。今日はいたたまれない気分で、Conya Dossばかり聴いていた。


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