12月20日、木曜日。
Eric Segalの「Love Story」の書き出しを”What can I say about~”だとずっと思っていたのだが、今調べると”What can you say about~”だった。この、いつだったのか記憶にないくらい昔父にもらった原書(もしかしたら自分で買ったのかもしれない)をこれまで何度も読もうとして、書き出しでいつもつまづいていたのだった。「なんて言えばいいんだろう?」という意味ではIでもyouでも同じような気がしないでもないが。あの本はまだ二階のどこかにひっそりとあるのだろうか。それとももう捨ててしまったのか。
ようやっと髪を切った。夕刻、もうすっかり日も落ちた5時半ごろ、相場のチャートを眺めながらユーロドルのストップロスがつくのをまんじりともせずに待とうとしていたのだが、ふと1000円カットはまだ営業してるだろうかと頭に浮かび、いくらなんでも6時まではやってるのではないかと思った。そう思うととにかく行ってみなくては気が済まなくなった。こうして僕はユーロドルが跳ね上がるところを取り損ねたわけだが、髪を伸ばそうと思っていたときは気にならなかったのに、そうじゃなくなった途端に中途半端に伸びた髪がうざったくてしょうがなかったのだ。車で向かいながら途中でスマホを忘れてきたことに気づいた。引き返そうかとも思ったがとにかくそのまま行ってみることにした。スマホがないとたぶん5分も待っていられないだろうから、誰か待っていれば断念するつもりだった。すると、幸いなことに客は一人もいなかったのだ。
こうして僕はようやく髪を切り、どうせならもうちょっと短くすればよかったかななどと思いながら母のいる特養に向かった。車内で煙草を一本吸ってから。
ホールに行くと、母は四人掛けのテーブルに一人だけ座っていた。母はちょっとうつむき加減にテーブルの向こう側の辺りを凝視しているように見えた。正確にはテーブルの上のどこかだ。だが母が何も見ていないこともまた確かだった。車椅子の母を部屋のトイレに連れていき、それからベッドに寝かせた。先ほどテーブルで固まっていたときよりも母は少しまともな表情になったように見えた。しかしながら、母は日に日にまるで抜け殻のようになっていくように思える。もちろんそれは蝉の抜け殻のように空っぽではなく、中には母という中身、人格が詰まっているのだけれど、母は恐らく一日のほとんどを何も見ないで過ごしている。母の網膜に映るものは大概の場合さして意味がないのだ。その、何も見ていないときに母は何を考えているのだろう? 何も考えていないということはあり得ない。ちょうど今読んでいるサルトルの「嘔吐」にもあるように、人間は存在しているが故に「何も考えていないということすら考えている」のだ。母は確かに存在していて、だから必ず母は何事かを考えている。だがそれが僕らの思考とは、ピントとか再生速度とかそういったものが微妙にずれているように見える。それを見ているのが辛い。それが果たして何を意味するのか、僕には分からない。一体僕に何ができるのだろう? そして、何が僕にはできないのだろう?
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クラブワールドカップ準決勝、鹿島 1-3 レアル・マドリード。試合は僕が思っていた通りの結果になってしまった。あまりにも力の差があった。その上、鹿島はやってはいけないミスを犯してしまった。こうなってはどうしようもなかった。そして、19歳の安部は結果を出せず、試合後に号泣した。なけなしの1点を返したのは土居聖真で、これも自分が思っていた通りだった。試合の鍵を握っているのは安部ではなく聖真だと。自分が思っていた通りの結果になったのに、物凄く悔しかった。まぐれとかただの幸運であっても勝って欲しかった。一夜明けて今日になってもそのなんとも言えない悔しさはいつまでも残った。それはレアルと鹿島の間にある埋められない差と同じで。サッカーというのはいかなることも起こり得るけれども、それでも個々の力の差というのは如何ともしがたいのだということを見せつけられた思い。このなんとも言えない悔しさ、ある種の気持ちの悪さを鹿島の選手たちもしばらくは拭えないと思う。僕と同じように。だがしかし土曜日にはリバープレートとの3位決定戦が残っている。果たして彼らはそこまでで気持ちを切り替えることができるのだろうか?
絶望とは自分の力が及ばないところにあるのか、それとも力の及ぶところにこそあるのか。たぶん、力の及ぶところにも及ばないところにも希望はあるのだ。そう思わないとやってられないよ、人間なんて。