12月27日、木曜日。
珍しく彼女がいるというリア充の夢を見て起きたら11時48分だった。カーテンを開けて外を見ると雪は降っておらず昨日と変わらぬ風景があった。昼ごろから雪がちらつき始め、それはいっかなやむことがなく、しんしんと静かに世界を白で塗りつぶしていった。
6時過ぎに母のところに行くころには世界は色を失ってモノクロームになっていた。7時半ごろに帰るころには駐車場の車には雪がすっかり積もっていた。その母のところでツイッターで小笠原の引退を知った。それからというもの、しばらくずっとほぼ涙目だった。落胆でも失望でも感謝でもない、なんとも言えない不思議な感情が満ちてきて。そしてそれは小笠原の名前を目にするたびに僕を一杯にするのだった。
考えてみれば小笠原も来年は40歳、引退しても何の不思議もない年齢なのだが、何故か中村俊輔や小野伸二や稲本よりも先に引退するとは思わなかった。まだ終わった感がなかった。ストーリーはまだまだ続くのではないかと思っていた。しかしながら、何事もいつかは終わるのだなというある種の切なさにも似た感情。だがそれは決して失意ではない。
それで思い出したのは6年前に抗がん剤の治療をしていたころのことだった。ステージ3で白血球の数値がとんでもない数値でPET検査では上半身のそこら中が癌だらけで、もっとも具体的に死が迫っていたあのころ、抗がん剤の副作用に辟易しながらも不思議なことに死を考えることはほとんどなかった。毎日淡々と曲を作っていた。抗がん剤治療で帝京大病院に通っていて、ある日眩暈がして酷く気分が悪くなり病院の受付のところで膝からくずおれたことがあった。看護師に車椅子に乗せてもらったのを覚えている。しかしそんなときでも僕は抗がん剤の点滴を8時間受けた。一体何が僕を動かしていたのだろう? それは恐怖や諦念ではなかった。どちらかというと希望の方が近かった。そして、話はまだ終わらないのだという感覚があった。実際、僕の人生はあそこで終わらなかった。
ふとそんなことが頭に浮かんだが、それが小笠原の引退と重なるところは何もない。彼の引退で僕が感じているのは恐らく喪失感なのだろう。選手としての小笠原を失ったという。だが人間としての小笠原まで失ったわけではない。ただ彼はあまりにも鹿島というチームそのものであった。