詰み

どうやら母は完全に呆けた。認知症であるかどうかは定かではないが、もはやなんら変わるところはない。まだ僕を忘れたわけではないが。

夕方、マイクロソフトのリモートサポートの2回目を受けたのだが結局問題は解決せず、バックアップを取ってOSをインストールし直すしかなさそうだという結論。2時間以上電話で話をしていたので昼寝が出来ず、夕食後にコタツに入っているといつの間にか寝てしまい、気がつくと10時近くなっていた。それで母を風呂に入れるのが遅れた。母の話によると、どうやら母も寝てしまったらしい。もしかしたらそれも原因があるのかもしれない。寝惚けという奴だ。

遅まきながら10時半過ぎに母を風呂に入れて身体を洗い、シャワーを停めるように言うと、母はどういうわけかしきりに温度調節のコックを捻ろうとする。そこじゃないと何度言ってもダメ。これにはかなりのショックを覚えた。で、それで急激にストレスを覚えたのか、その直後、母が風呂から上がるころに僕は猛烈な腹痛に襲われた。僕が台所の椅子の上で苦痛にのたうち回っていると、母は何の反応も見せずにただパジャマに着替えていた。僕の強烈な腹痛は治まらず、父が一度胃に穴が開いて死にかけたのを思い出し、僕も死ぬかも知れないな、と思った。そして、僕がいくら喚いても何の反応も見せない母を見て、

こいつは俺が死んでも気づかない

と思った。僕が死んで腐敗臭を漂わせるまで気づかないのではないかと。そして、よしんば気づいたとしても119番はおろか、誰にも電話すら出来ないだろうと。

僕は腹痛に身を捩りながら、完全に詰んだな、と思った。一向に治まらない腹痛をこらえながら、誰かと話したいのだが、思いつく誰とも話したくないことに気づいた。それは孤独の極北であり、絶望の極みだった。僕が唯一話したいと思ったのは、正気の母であり、元気で優しい母ただ一人だけだったのだ。

もう母はいない。そう思った。まるで怪物のように無反応な母を嫌いになった。救い難い。もう母の世話をする気も失せた。

そうは言うものの、もう12時を回ってから、結局僕は母に歯を磨かせ、薬を飲ませた。これは一体なんなのだろうと思った。亡父に心の中で問いかけてもみたが、答えが返って来る筈もない。

腹痛が治まるにつれ、僕は前々からうっすらと思っていたことを改めて思った。

愛は求めるものではなく、求めてはいけないものなのだ。愛とは、ひたすら与えるだけのものであるのだ。

たぶん、それだけの話なのだろう。僕が感じたのはまさに地獄だったが、これは地獄でも試練でもなにかの懲罰でもなく、ただの愛に関する教訓であるのだ、と。

明日弟が来て一泊すると言っていたが、本心を言えば来て欲しくない。弟に会いたくない。誰とも話したくない。かといって、母にどう接したらいいのかすら分からない。僕は今、世界の果ての断崖を、目隠しをしてふらふらと歩いているのだ。

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