今日は昨日ではない。サイトのトップページにも掲げているレイモンド・チャンドラーの作中の文言だ。どの作品だったかは忘れた。味わい深い言葉だ。実際、今日は昨日ではない。もしかしたら、それが救いでもある。実際、ときにはそれが救いになる。よく言われる「明日がある」というのは、今日という日は常に昨日になるという宿命を示唆しているだけなのかも知れない。僕らが生きているのは常に今日であり、今である。昨日ではないし明日でもない。だからたぶん、希望は常に今日あるべきなのだ。
だが皮肉なことに脳が認識するタイムラグにより、僕らは常に微妙に過去を生きている。そして、不安というものは過去よりも主に未来にある。一寸先は闇、次に何が起こるかなんて誰にも分からない。
FXの為替相場のチャートを見ていると、上がったり下がったりする。不安や希望のように。昨日から試しにストップロスを多めに取ってポジションを日をまたいで持ち続けてみた。そうすると、プラスになったりマイナスになったりする。損切りしない限り、いつかどこかではプラスになる(筈)。しかし、分からないのはどのタイミングで抜けるのがいいのかということだ。結局、次にどうなるかなんて分からないから。チャートの上下というのはもしかしたら僕自身の感情や欲望の上下を見ているのかも知れない、などと思う。
まったく希望がない毎日を生きているとずっと思っていたが、恐らく幾ばくかの希望は常にあるのだろう。そうでなければ生きていけない筈だ。ただ不安や絶望がそれを凌駕しているだけで。
そんなわけで今日は何度か自分に「今日は昨日ではない」と言い聞かせた。
前置きが長くなった。
朝は町内会のゴミの当番だった。なので、朝食後に集積場に行ったが何事もなく、ただホウキを持って往復しただけ。むろん、その方がいいのだが。雪はちらついていたが、雪かきするほどではない。
業務は昼過ぎに恰好がついたのでタマには無理せずにとっとと帰ることにした。というと聞こえがいいが、要は基本通りに粘る精神力がなかっただけ。言い方を変えれば、今日は昨日よりもツイていると思いたかったので、ツイているうちに帰ったというわけ。なので1時前には帰宅。ところが、机に向かってFXのチャートを眺めていると、前述のようにどこで抜けるのか(決済するのか)一向に分からない。そのうち煮詰まってきた。いまだ抑うつ状態である。なので、母の病院に行くまで少しソファで寝ることにした。
結局、2時間ばかり寝て、現実とあまり大差ない夢を見た。危うく現実と混同するところだった。目が覚めると電話が鳴り、母の病院の、先日打ち合わせをした師長からだった。話を簡単にまとめると、先日申し込んだ介護施設はなかなか空かないので、次に移る療養型の病院を早く申し込んで欲しい、という内容だった。だが問題は候補に挙がっている2つの病院それぞれに難点があるということ。一番の要因は母が統合失調症という精神疾患を抱えていることで、ひとつの病院は精神科があるが理学療法士がおらず、体力回復のリハビリが十分に受けられるかどうか分からない。おまけに病床数が少なく、かなり順番待ちをしそうだ。もうひとつの病院は理学療法士がいるが精神科がない。おまけにこちらは入院費が高い。月々赤字になるくらい。一長一短というよりもむしろ、どちらも短所があるということである。結局、後でキャンセル出来るので両方に紹介状を書くから申し込むだけ申し込んで欲しいとのことだった。後者の方が待たずに済みそうなので、施設に移るまでの2・3ヶ月であるなら後者の病院でも仕方ないかなと思う。
それから母の病院へ。着いたのは4時半ごろだった。母の精神状態・認知機能は日増しに少しずつ悪化している。今日も名前と誕生日を書く練習をさせたのだけれど、書くたびに間違えたり思い出せなくなるのが酷くなる。被害妄想や幻覚も少しあるようで、不安げな声をしきりに出す。正直、母が何を考えているのか、母の頭の中がどうなっているのか、さっぱり分からない。もはや感情移入することも難しくなっている。だが悲しいことではあるけれど、それが僕のある意味救済になるという皮肉な構造が見える。つまり、もう療養型の病院に入れて、やがては施設に入れるのも仕方がないのかなと腹を括り始めた。母を見捨てるわけではないが、物凄く主観的だった見方が少しずつ客観的な方に向かい始めている。それがいいことなのかどうか、僕には分からない。だがもはやそうするしかなさそうに見える。
結局のところ、人間は自分のことしか考えられない。他者のことを考えているつもりでも、実際は自分自身のことを考えている。どこかで自分は本質的に自分勝手で自分本位な存在であることを認めなければならない。
なんかこういうことってちょっと悲しい。僕は母のために生きたかったのに。母はどんどん僕のあずかり知らぬところで変容していってしまう。そして僕はそれを受け入れ続けなければならない。
今日はいい日でもなく、特別に悪い日でもなかったのだろう。世界は常に変容する。一刻も休むことなく。そこには絶望も希望もある。