どうしても早く目が覚めてしまう。しょうがないので、長いこと懸案になっていた部屋の片付けと掃除をした。昼ごろから調子が悪く、頓服を飲んだ。元妻から電話があって、こっちの駅に来ていて暇しているというので、久しぶりに駅前のドトールで一緒にお茶を飲んだ。久しぶりに見る元妻は心なしかちょっとふっくらしているように見えたので、太った?と訊いたら案の定、数キロ太ったらしい。元気そうだった。カフェ・ラ・テを1杯、馳走になる。
どうにも不安定なので帰宅してソファで昼寝、それでもなかなか普通には程遠かったが、仕方なく夕刻、医者に。で、ラミクタールをトータルで50mg増やすことに。ま、確かにラミクタールを飲んでから、酷さの度合いは多少軽減されているような気はする。帰って85円のカップヌードルの夕食後、ソファに寝転がって昔買ったジェームズ・ケイン「郵便配達は二度ベルを鳴らす」を読む。余計な描写がなく、テンポが速いのはいいのだが、何しろ昭和30年代の翻訳、会話が古臭くて参る。村上春樹も「ロング・グッドバイ」のあとがきに書いていたが、口語体はある程度、25年に1度ぐらいは翻訳し直した方がいいと思う。田舎者を表すのにどこかの方言を使う手法ももう古いと思う。育ちの悪さやスラングをどう表現するか、というのは、それが物語全体でどれほど重要なのかに委ねられるはず。誰も彼も蓮っ葉な喋り方をすると、まるで昔の日活映画でも見てるみたいだ。
そのうち本も読めなくなり、音楽も聴けず、しばし天井を見て呆然とする。だが、永遠に呆然としているわけにもいかないので洗濯をしたり、Facebookに書き込んだりしてみるが、旧頓服のセパゾンを飲んだせいかラリってしょうがない。煙草を買うついでに散歩に出てみるが、ふらついて足取りが覚束ない。自宅から徒歩5分ぐらいのところで遭難するのはさすがにカッコ悪い。ふらふらと戻って、向かいの障害者施設のベンチで煙草を吸ってまたもや呆然とする。このふらつき、煙草を強い奴に換えたのも関係あるのだろうか。いずれにしても頭の中が濃霧注意報、適当に本を読んで早々に寝たほうがよさそうだ。