奇妙な朝を思い出す

今日もうんざりするほど暑かった。例によって早めに帰って冷房をつけて昼寝した。なにしろ、何もやる気が起きないのだから。

まったくの偶然だが、夕飯を食べる間、普段まったく見ないテレビを珍しくつけていたら、ニュースが終わってドナルド・キーンの特集番組になった。ドナルド・キーンは89歳にして日本に帰化し、日本人になることを決意した。終の棲家として日本を選んだ。今、の日本だ。で、ぼんやりと見ていたら、70年も日本に関わってきたドナルド・キーンが、84歳にして初めて(東京の)道で女性に地下鉄の駅を訊かれて、それがとても嬉しかった、と語った。これで思い出したのが、初めて仕事でロンドンに行ったとき。初めてというか、僕は一度しかロンドンに行ったことがない。それで、着いて2日目の朝、時差ボケで早く目が覚めたので散歩に出た。僕の泊まっているホテルは最寄り駅がベイズウォーターでケンジントン・パークの近くだった。僕はベイズウォーターとは反対側の、隣駅であるノッティングヒルまで歩いた。ジュリア・ロバーツ主演の映画「ノッティングヒルの恋人」の舞台である。なんとなく、どこか髪を切れるところはないか探しながら。日本と同じで美容院はいたるところにあった。僕はノッティングヒルをぐるりと一回りして、ケンジントンパーク沿いに歩き、ベイズウォーターまで戻ることにした。すると、向こうから歩いてきた老夫婦(白人)に地下鉄はどこかと訊かれた。僕は今通り過ぎてきたばかりなので、僕が歩いてきた方を指し、あっちですよ、と答えた。ドナルド・キーンが65年かけて得た体験を、僕は2日目にして体験した。いまだに、一体何故僕に訊いたのか、理由がよく分からない。僕だけが歩いていたわけじゃないし、僕がどこから見ても東洋人なのは一目瞭然なのに。僕こそがまさに、おのぼりさんだったのだから。それから角を曲がってベイズウォーターの駅の前を歩いていると、向こうからバンドのベースがやってきて、ちょうどよかった、テレフォン・カード、どこで売ってるんですか、と訊かれた。僕はたまたま前の日にテレフォン・カードを買ったばかりだったので教えることが出来た。でもね、ホントにまだ24時間もロンドンにいなかったのだから。ロンドンのことなんてこれっぽっちも知らなかったのだから。まったく奇妙な朝だった。

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