5月8日、火曜日。
それにしても寒かった。最高気温は13度。
素晴らしいドキュメンタリー番組を見るという夢を見て、なんとか9時24分起床。多少はまともな時間に起きたのはいいが、煙草の本数が増えるのが心配だった。結局、午前中に役場に行って自立支援の更新。案の定というか、HHさんはいなかった。入って室内を見渡して、あれ、いないかなと思ったのだが、帰り際にドアに貼ってあった席次表を確認すると、やはり彼女は外出中で留守だったようだ。
昨日の日記にも書いたように、確かに諦めたはずなのに酷くがっかりした。例え彼女がいたとしても、せいぜいが挨拶をするぐらいしかできなかっただろう。にもかかわらず、一目見たかったなという思いがだんだんと後になって湧いてくる。そして、彼女の姿を見れなかったことがやけに悲しいことのように思えてくる。まるでちょっとした失恋をしたみたいだ。
どっちにしろ、僕が恋心を抱いていたのは所詮想像上のHHさんであって、すべてはただの空回りに過ぎない。しかし、なんでこうなったのか。彼女の姿を見ることのなかった4年間はこんな風に思わなかった。で、このままでいくと次に僕らが会うのは4年後か5年後なのだろう。そのころには僕はジジイになっていて、彼女は完成されたおばさんになっているのだろう。最初から持ち合わせていなかったものを、なんだか失ったような気がするのは何故だろう? 何故人は手に入らないものを欲しいと思うのだろう?
すべてはいつか、懐かしい思い出になるのだろう。そして、それすらもいつか忘れてしまうのだろう。消えない痛みですら忘れてしまうのだから。
で、確かなものはどこにあるのかな? すべてはここに、この手の中にあるのかな。ただ気がつかないだけで。ただ見失っているだけで。