生きる

10月30日、木曜日。

9時14分起床。

朝起きた時点ですぐにスマホを見たら、FOMCで指値が2つついて反発してもう結構利益が乗っていた。すぐに利食おうかと思ったほど。こういうたまたま運よくついた指値というのは選択肢が2つあって、ひとつは利食う、もうひとつはそのまま延々と保持する。今日の場合は本来なら後者だな、少なくとも昨日の高値を上回るかどうか判断すべきだろうなとは思ったが、なんのことはない、一度押しが来てマイナスになったのでなんだか気勢を削がれて一応日中の高値で午後結構早い時間に利食いしてしまった。案の定その後なんだかんだいってそこを超えたりはするのだが、なんにせよ一日で一昨日の特大損切り分の5分の1を取り戻せたのでよしとしなければと。その後は下手に手を出さず今日は何もしないことにした。

この、何もしないということが思いのほか辛くて、しかもまだ午後の早い時間だしどうしたらいいか分からずソファで毛布を被って昼寝をしようとしたのだが、どうしても眠れない。結局諦めて珈琲を淹れて煙草を吸うのだが、生きるのってこんなに辛いのかと思った。殊に何もしないでただ生きるということが。そう考えてみると施設に入ってからの母が晩年どれだけ辛かっただろうかと考えると胸が痛い。

いずれにしろ、ちょっとした燃え尽き症候群のようになって精神的にいたたまれないので、たまたま今日は天気がよかったから庭仕事をした。こういうときはやはり身体を動かした方がいい。それでもまだ抜け殻のようだったが、珈琲の豆を煎ったりしてなんとか時間を潰す。で、思い出したように鋭意制作中のギターソロをちょっと直す。

不思議なことに日が高い日中ほどそういうある種の罪悪感にも絶望感にも似たいたたまれなさは強く、日が落ちて夜になるともう何もしなくても許されるような気にちょっとなる。これは恐らく日中は人々が働いている時間、という意識が潜在的に働いているんだろうと思う。

なんだろう、今日の業務が失敗だったとは思わないが、その後なんとなくチャートを見ていてもまったくトレードのアイディアが湧かなくなってしまった。気力が失せてしまったというか。とにかく、生きるということはかくも難しいものなのか。

煙草の本数だけが増える。

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