ネットは28日に設置したのだけれど、肝心のPCがUSBが上手く動作せず起動することが出来ず、そっちは昨日修理に出して、今日ノートパソコンを買った。そんなわけでようやく更新が出来る。
久しぶりの日記だけれど、正直どこから書いていいのか分からない。22日に引っ越しを完了して夕方の新幹線に乗り、田舎の最寄駅に着いたのは7時過ぎだった。タクシーに乗り、実家に辿り着いた僕を待ち受けていたのは、既に狂気に憑りつかれていた母の姿だった。それからの日々はまさに地獄だった。数日に1度、大体4日から5日に1度、1日だけ母は正気に戻る。しかし翌日からまた母はまったくの別人となる。被害妄想は日増しに酷くなり、3日目の晩辺りに1番酷くなる。そうなると母は一睡もしない。支離滅裂な話をして、氷点下の屋外に出ようとする。それが朝まで延々と続く。僕は途中から完全に神経が擦り切れて、力づくで朝まで母を抑え込む。一昨日の夜がそうだった。本当に悲惨だ。僕は母を精神病院に入院させたくなかった。先週、隣町の病院で入院病棟を見学したけれど、その病院の入院患者は皆背筋が寒くなるほど狂気に憑りつかれた目をしていた。そんなところに母を入れたくない。しかし、目の前の母はまさに狂気そのもの、その言動は完全に狂っているとしか思えない。もう僕には母を救う手段がないのだ、という暗澹たる思い。悲惨極まりない地獄だ。僕は何もかも放り出して泣き喚きたくなった。しかし、母の狂気はそれすら許してくれない。僕はときおり気が遠くなりながら、永遠に来ないように思われる朝が訪れるのを、訳の分からない妄想を口にし続ける母の手を握って待った。母が正気に戻るのをひたすら待った。
やがて夜が明け、外が白んでくる。時計が7時を回るころ、山形市に住む叔父に電話をして来てくれるように頼む。助けを求められるのは、母の弟であるこの叔父しかいない。僕は朦朧とする頭で母の妄言を聞きながら、ひたすら叔父が来てくれるのを待った。叔父の到着を待つ間、母がどれぐらいか分からないがうとうとして、それでようやく落ち着いた。この酷い夜が明けると、翌日は決まって調子がよく、1日だけ正気を取り戻すのだ。
そんなわけで昨日の朝、9時前に叔父が到着してからは、母の状態はよくなり、代わりに一睡もしなかった酷い一晩の記憶を一気に失くした。母を病院に連れていけるのは今しかない、入院させられるのも今しかないというので、重症患者ばかりの隣町の病院ではなく、地元の精神病院に母を連れて行った。母ではなく、僕の方が既に限界に来ていて、もう母を入院させるしかないというのが叔父の判断だ。まともになった母は久しぶりに自分で着替え、化粧をして素直に僕らに従った。
午前中に辿り着いた病院では延々と待たされて、診察後も即日入院の手続きに延々時間がかかり、ようやく母を病室に入院させられたころはもう半日が過ぎていた。正気を取り戻した母は、入院することに素直に同意した。病気を治すためだからと。あまりにも母が素直なので、僕は悲しくなった。前回見学した病院に比べると、今回の病院はそれほど悪い環境ではない。6人部屋だが、同室の患者は皆おとなしい。それでも、少なくとも2・3ヶ月を母がこの閉鎖病棟で過ごさなければならないと思うと胸が痛む。
一旦自宅に戻り、着替えなど、入院生活に必要なものを揃えて病院に届け、再び家に戻ったころに不眠の疲れがどっと押し寄せた。夜、広い実家に一人で寝るのに何処か不安を覚える。
そんなわけなので、今朝起きたのは9時。母の入院のために揃えなければならない書類がいくつかあり、車であちこちに寄り、その途中で迷った挙句にノートパソコンを買った。なんていうか、今の僕にはなんらかの気晴らしが必要だから。夕方、5時過ぎに母の見舞いに行った。予想していたことだけれど、案の定、調子のよい日の翌日は別人になっていた。自分が病院にいることはなんとか認識しているようだけれど、点滴しながら僕に話す母の話は、状態が一番悪いときのそれで、支離滅裂な妄想だ。母の妄言に慣れている筈の僕でさえ意味が分からないほど、今日の母の話は酷かった。その訳の分からない話にうなずきながら、やっぱり入院は仕方がなかったのだなと改めて思った。この状態の母を自宅で僕一人で見るのは無理がある。それに、状態が悪いときの母は3日ぐらい平気でまったく食事を摂らず、水さえも飲まないので、病院にいれば点滴を受けられる。
脳死状態にある父はまだ存命中だ。母の診断は一応PTSD。狂気という病気は存在しない。今の僕が願いは母が治ること、ただそれだけだ。