21 days

何から書いたらいいのだろう。とりあえず生きてます、まだ。

先月の29日に僕は警察に逮捕され、20日間の勾留延長の末、本日(19日)4時過ぎに起訴猶予で釈放されました。

今、21日ぶりに自宅の書斎でビル・エヴァンスを聴いている。まだ手がちょっと震える。いまだに自分が自由になったという実感も湧かない。自由ってなんだろうと思う。警察の留置場にいる間、僕の頭の中にある自由のイメージはコーヒーと煙草、ネット、自宅の台所だった。21日間、僕には自由というものがなかった。

21日間もの間のことを、今日一日の日記として書くのは土台無理だ。もう少し落ち着いてから、明日から少しずつ詳細をここかfragmentsに書いていこうと思う。とにかく僕は21日間、自由のない世界、こことは別の、いわば月の裏側のようなところにいた。

あらすじだけは書いておこう。

僕の罪状は母に対する傷害。29日の朝、警察が自宅を訪れ、任意ということで警察署に連れて行かれ、驚いたことにその日の夕方6時ごろに逮捕状が出て僕は手錠をはめられ、腰縄をかけられ、自由を奪われた。一切誰にも連絡すら出来ない。僕は見ていないが翌日には地元の新聞に実名報道されたらしい。にわかには信じ難いことだった。通常ならばまず事件性の有無から捜査が始まるにも関わらず、そこは飛ばして勇み足と呼べるほどの異例のスピードで物事は進んでいった。警察と検察は犯罪であると決めつけ、僕が犯人であると最初から決めつけていた。母の担当医の、罪には問われないと思うとか、むしろ警察に通報した方がいい方に物事が進むと思うという発言、実際の原因は分からないのですという事前の発言、そういったものとはまるで正反対の方向に事態は有無を言わせず進んでいった。

弁護士にすら連絡を取ることが出来ない。僕が外部と連絡を取るには、国選の弁護士が接見にやってくるのを待って頼むしかなかった。そしてまた弁護士がやってくるのを待つ。弟だけは2度面会に来てくれ、差し入れもしてくれた。弟は今日も僕を迎えに仙台から来てくれた。

普通に生活していれば知りえない今回の体験で僕が知ったのは、警察も検察も司法も、決して僕らを守ってはくれないのだということだった。そこにあるのは後付けの「事実」と称するものであり、彼らによるある種の極度の視野狭窄だった。そして、字面の上だけの正義らしきもの(果たしてそう呼べるかもはなはだ怪しい)だった。それと名目上だけの権利。実質、僕はまったくもって囚人扱いされ、権利と呼べるものはほとんどないに等しかった。犯罪者と呼ばれるのは有罪が確定してからであり、起訴されてからは被告人、僕はその手前の被疑者であるに過ぎなかったにも関わらず。

やはりこの調子で書くととんでもない長文になりそうだ。それに、僕はとても、とても疲れている。だが簡単には眠れそうにもない。

4時半に弟が迎えに来て、弟の車で僕らは隣町のイオンにあるサイゼリヤに行き、僕は21日ぶりにコーヒー(カプチーノ)を飲み、煙草を吸った。

capchino

それから僕は21日ぶりに暖かい食事を摂った。留置場では暖かい味噌汁の一杯も出なかった。弟には本当に感謝している。さっき、風呂から上がってから寝ようとする弟にもう一度確認した。本当に捜査は終わったんだよねと。しかし、一体何が終わったというのだろう。一体この21日間はなんだったのだろう。確かに僕には前科はつかない。だが、何故自分が自由だという感じがしないのだろう。

今日までの間、あまりにも長かった。そしてあまりにも多くのことを僕は考えた。ありとあらゆる悪いこと、最悪のことばかりを考えた。そして今もまだ、手はちょっと震えている。心臓がまだ少しどきどきする。それは単純な恐怖というものともちょっと違う。僕は現実と非現実の間を行ったり来たりして、現実と悪夢の境目のないところをさまよった。

明日病院に行って母の顔を見たら、少しはその境目が見えてくるだろうか。こっち側にいることを自覚出来るのだろうか。

自由というものがなんなのか、理解するためにはどうやらもう少し時間が必要なようだ。それと、秩序だって物事を語れるようになるまでも。

眠るのが少し怖い。目が覚めたとき、果たしてこちら側の世界にいるのかどうか、まだ半信半疑なのだ。

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