土曜日。
あんまり寒いので去年の今ごろどうしていたのかこの日記を読み返してみたところ、近頃とまったく同じように何も出来ないと毎日書いていた。で、その日記が恐ろしく鬱屈していてひたすら陰鬱で唖然とする。確かに去年は一年を通してこれでもかと考えられるあらゆる不幸が襲ってきたような一年だったが、そのときと今の日記とまったく同じ調子になってしまっているのは何故か。しかも精神的には去年と同等かあるいはそれ以下に弱っているのは何故か。とどのつまり、気がつくとこの日記というものが読み物として考えると途轍もなく陰鬱でつまらないものになっていた。これでは読者が日増しに減るのも当たり前だし、書いた本人の自分が読んで気が滅入るくらいだから人様はもっと読むのが辛いだろうと思われる。というわけで、今日はこの日記の存在意義を考える羽目に陥った。体裁としてはブログのような形を取っているが、ここはあくまでも日記である。記録であり、備忘録だ。加齢のせいももちろんあるが、一時期薬漬けになって以来時間の感覚や記憶がやたらと怪しくなったので義務的に毎日書いている。だから自分以外に誰も読まなくても別に構わないといえば構わないのだが、日々のアクセス数が分かるとやっぱりそれなりに気になる。いっそのこと日記として毎日書くのはやめてしまい、それこそブログとして前向きなことを書けるときにだけ書くことにしようかなどとも考えた。しかしそれでは困る。自分が。いつ何をやったのか検索で一発で分かるというのはそれなりに便利なのだ。ダメなときにダメな日記になるのはしょうがない。
このsomething newを日記として毎日書き始めた当初は、他人の幸せを読むよりは他人の不幸を読む方が面白いのではないかと思っていた。しかし、気がつくとそれは時代の流れに逆行していた。FacebookやツイッターなどのSNSに象徴されるように、今は幸せを分かち合うのがトレンドであり、リア充自慢をしあう時代になった。いわば幸せの押し売りである。だから、僕のような非リア充の人間はFacebookなどの「いいね!」しかないSNSは苦痛でいたたまれないことの方がほとんどだ。僕が時代に乗り遅れているのか、それとも単に鬱屈しているせいなのか、まあ両方なのだろうけど。しかし、気がつくとこの僕の日記のようなものがそれこそ不快なものになってしまう時代なのかもな、と思った。
ま、いいや。
とにかく日記として書こう。昨夜は眠くて1時20分ごろには寝て、今朝は二度寝して8時7分ごろに起きたと思う。だから最近にしては寝れた方だ。それでいい夢を見た。最初はバンドの練習をする夢だった。どこかの大学の広い教室で、いつもとは違うメンバーと長い曲を練習していた。そこで一度目が覚めた。二度寝すると、今度はどこかの女性と一緒に住んでいる夢を見た。ひとつ屋根の下に男と女が一緒に住んでいるのだからこれはなんか期待出来るのかも、などというスケベ心を覚えたり、なんというか誰かと一緒にいるというのは幸せなことだなと思った。こんな気持ちで死にたいと思ったぐらいである。なので、朝起きたときはそれなりに案外と気分は悪くなかった。
ところが朝食後になるとやっぱり何をしたらいいのか分からない。結局何も出来そうに思えない。外は雨がしとしとと降っていかにも寒そうである。しょうがないのでまた昼食用のサンドイッチを作って業務に行った。昨日スーパーでフリースを着て僕よりも厚着の人を見かけたので、今日は11月になったことだしと、革ジャンを着て出かけた。実際、今日もフリースを着た人を見かけたし、結果的にはそれほどの厚着というわけでもない。
今日もツイていなかった。まったく。2時前に退散。考えてみると今日から世の中は3連休なのだった。明日明後日は業務に行かないことにしよう。ともあれ、帰宅するとやっぱり鬱屈して何も出来ない。それに寒い。ソファで毛布を被って本でも読もうと思ったが読むことも出来ず、結局小一時間ほどうとうとした。ところがいい夢を見るどころか今度は強迫観念に駆られて酷い気分になっただけだった。
という具合に結局今日も何も出来なかったのである。去年の日記から単純計算してももう一年以上も何も出来ないという状態が続いていることになる。うつ病恐るべし。ただ煙草だけが増える。今週は22本から23本のペース。今日はもっと増えそうだ。その辺も気になって、夜になってふとググってみると、「愛煙家通信」というページを見つけた。これが案の定というか、煙草を吸う身としてはなかなか痛快である。寄稿しているのは大体が高名な作家や女優だが、中には医者もいる。例えば順天堂大学医学部教授の奥村康によれば肺がんの原因となる発癌物質の最たるものは車の排気ガスであって、「排気ガスを一〇〇とすれば、たばこは〇・一以下」ということだ。彼の記事はそれ以外にも「コレステロール値が低くなればなるほど、病気などによる死亡率が高くなる」とか、なかなかに興味深い。その他の高名な作家連中も揃って喫煙を肯定しているわけだけれど、ただ彼らはヘビースモーカーだが70歳、80歳になっても健康であって中には肺が綺麗という人もいて、健康だからこそ言えるという側面もあり、万人に当てはまる理屈ではないと思うが。アメリカを最たるものとする「健康病」とか極度の偏見に満ちた禁煙ファシズムというものは厳然とあると思うし、これらの記事を読んで、ま、あまり煙草の本数に神経質になることもないなと思ったのだが、実際のところ、毎朝仏壇の父に線香を上げながら母と僕が心身ともに健康でありますようにと祈っているのも事実だ。要するに煙草を吸わなければ病気にならずに長生きするというわけではないのだが、かといって煙草を吸って長生きするというわけでもなく、吸うという選択をするか吸わないという選択をするかのどちらかしかないという当たり前のところに行きつく。実際問題として直接の死因ではないにしろ父は肺気腫が原因で死んだわけだし、僕も肺気腫(たぶん)なのだから、いくらでも煙草を吸って構わないということにはならないとは思う。何事も過度は禁物だから。ただ今のところは煙草を吸うという生き方を選択しているだけで。
どういうわけか今夜はまだあまり眠くない。バイエルンとドルトムントの試合見たいが2時20分からというのはさすがにきついので諦める。なんだかんだこの日記に関して猛省したわりには結果的に冗長で長文の日記になってしまっているという。
ちなみに今日の母はとても落ち着いていた。