我が妄想

4月9日、木曜日。

晴れ。昨日ほどではないがやっぱり寒い。

今朝はゴミ当番なのでアラーム使用で7時45分起床。ゴミ当番といっても箒を持って収集車が持ち去らずに置いていかれたゴミがないかどうか確認してくるだけで、これまで何か問題があって置いていかれたゴミがあったのは一度しかない。今日も何もなし。ただゴミ置き場を見てきただけ。

2日続けて8時間ぐらい寝た後での6時間睡眠は少々眠かったが、気がつくと今日は昼寝をしていない。なんだか最近は昼寝をするという思考回路にならない。これはいいことなのだろうか。

早起きしてしまったのであれやこれや考えて煮詰まる前に業務に行く。なんだかんだいって業務に行くとあれこれ考え悩む必要がない。ただ昔と違って意欲はないのでそれなりに業務自体にストレスは感じる。最近はセコく結果が出ているので我慢する。3時まで。

帰る足で寺に寄り、明後日父の三回忌をやるので墓の掃除をした。恥ずかしながら、考えてみれば箒で掃いて雑巾で拭くというような墓掃除をやったのは初めてだ。真ん中の新しい墓の裏に父の名前を見つけ、父は自分で建てた墓に自分が入ったのだなあと感慨をあらたにする。そして、僕もこの墓に入るのだろうかと思う。

帰宅後、4時過ぎになってどういうわけか猛烈に空腹を覚えた。確かに少々早起きしたがそのせいとも思えず、菓子パン1個で昼食を済ませたせいだろうか。食欲が増すドグマチールは飲んでいない。とにかく急激に腹が減って5時を回るころにはあまりの空腹にギブアップ寸前となり、もう今日は早めに夕飯を食べようと思った。かといって何かを作る気にもなれず、久々に次年子の食べ放題の蕎麦を食べることに。七兵衛そばに電話をしてやっていることを確認してから車で出発。すると、20分も走って大石田町に入ると道の両脇に雪がまだ残っていて、さらに山の方に向かうと辺りはすっかり雪景色になった。さすがに道自体に雪はないが、もう普通タイヤに替えてあるのでちょっとビビる。

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なんていうか、風景がちっとも春じゃない。冬に引き摺り戻されたような気分になる。

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というわけで七兵衛そばに到着、ひとつしかないメニューの盛りそばは食べ放題である。大根汁にそばつゆを入れて食べる。あんなに腹が減っていたのに、男性の標準と言われる3杯頼んだのだが食べ切れずに少し残してしまった。壁には「そばは残さないでください」とあるのに。食べ終わって店の外に出ると辺りは薄暮に覆われ、数匹のコウモリが鳴きながら飛び交っていた。

その足で母のところに直行。到着すると母は食堂(ホール)のソファに横になっていて、何事かと思って職員に訊ねると、母の左足がむくんだためだという。見てみると、本当にすっかりむくんでいる。このところ渡してある弾性ストッキングを穿かせていなかったせいだ。職員に母が静脈血栓であることを話して弾性ストッキングを毎日穿かせるように頼む。

母のところから帰宅後、NHKで今日から始まったドラマ「かぶき者慶次」を見た。うーむ、「慶次」というのは隆慶一郎の「一夢庵風流記」を漫画化するに当たって読者に分かりやすいようにそう表記したのであって、前田利益の通名は慶次郎である。まあそこは百歩譲るとして、藤竜也ではその慶次郎のイメージじゃない。前田利益はまず腕っぷしが強そうじゃなければならず、豪傑に見えなければ。

夜、気がつくと昨日とまったく同じ時間に11本目の煙草を吸っていることに気づく。昨日は結局15本だった(15本目は3分の1ぐらいしか吸えなかったが)。今日は少々早起きした方なのである程度しょうがないといえばしょうがないが、毎日決まって11本目の煙草で物凄く調子が悪くなる。もうほとんどお約束みたいなものだ。今さっきこの日記を書くのがしんどくなって台所に行って本日13本目を吸ってしまったけれど、12本目以降はただ惰性で吸っているだけでもう胸は詰まるわ手は痺れるわただの具合の悪い人であり、煙草を吸っても煙草を吸っている気がしない。実際、今の煙草を吸っては体調が悪くなるようになってからというもの、いざ吸ってみるとそれまで吸いたい吸いたいと思っていた煙草を吸っている感じがしないのである。もはや、僕にとっての喫煙というものは、頭の中の願望が作り出した妄想となりつつある。何故自分が煙草を吸いたいのか、吸っているのか、もうさっぱり分からないのだった。ただ朝から晩まで煙草を吸いたいとひたすら思い続け、もう一方では吸ってはいけないとひたすら思い続けている。一日中その両極の思念が綱引きをしている。それだけで頭が一杯だ。だが実際問題として11本目で極度に具合が悪くなって以降はまったく頭が回らなくなる。結局のところ、僕の願望というのは煙草そのものが吸いたいというよりも、煙草を吸うことが平気になりたいという、まるでこれから煙草を吸い始めようという高校生のような発想に近いような気がする。どこかに煙草を吸っても大丈夫なんだと思い込みたい自分がいて。なんかそれはある種の憧れ、憧憬のようなものだ。そんなわけで僕の中では煙草はもう煙草の葉を紙で巻いたものではなくて、何かの象徴のようになりかけている。つまり、煙草を吸える人間こそが健康なのだというような、本末転倒なイメージ。本当に妄想化してそれに憑りつかれているかのようだ。これでは禁煙出来ないのも当たり前のような気がする。

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