ばっくれて、後

3月13日、日曜日。

バイオリズムという言葉を聞かなくなって久しい。人の気分は、少なくとも僕の気分は相場の波動のように上がったり下がったりする。昨日上がったテンションは早くも今日になって下がった。我ながら浮き沈みが激しい。

今日は午後の1時半に近所の人の葬式の予定が入っていた。基本的に、この界隈では面識のない人でも町内会の人が亡くなったときは3000円の香典を持って行く習わしになっている。そんなわけなので、昨夜のうちに香典袋を用意して台所のテーブルに置いておいた。

昨夜寝たのは3時半近く、今朝も渾身の二度寝をして起きたのは10時過ぎ。ところが朝からがんがんに頭が痛い。寝過ぎなわけではないと思うが。イブプロフェン200mgのアドヴィルを飲んでもなかなか頭痛は治まらない。それでなくても起きた時間が時間だから、朝食後うだうだしていると昼、納豆で軽い昼食を食べているともう葬式の時間が近づいている。煙草を一服していると1時を回り、慌てて二階から喪服を持ってきて着替える。まだ頭痛は治まっていない。

斎場に着き、受付で名前を書いて香典を渡し、席に座った。95歳だか96歳だかで亡くなった近所の爺さん、祭壇上の花が少なくて何やら寂しい。隣のおっさんが足を開いて座っていてうざい。それと頭痛もあって、座った途端に嫌になった。これは我慢できないなと。それで携帯を取り出して電話が入った振りをして会場を出て、受付に慌ただしく「すみません、失礼します」と頭を下げて逃げ出したのだった。

もしあの隣のおっさんがあんな風に足を広げてなかったら、もっと普通のつつましやかな人だったら。もうちょっと我慢できたかもしれない。もうものの5分もすれば葬儀は始まるところで、始まったらさすがに途中退席はできなかっただろう。だがとにかく僕は逃げ出したのだった。

家に着くなり早速着替えて煙草を一服した。それからアドヴィルをもう1錠飲んだ。まったく憂鬱な気分だ。まるで見知らぬ人であるとはいえ、葬式をばっくれたというのは罪悪感がある。例の、学校をさぼったときの感覚にちょっと似ている。いやそれよりももっと礼を失したというか、神聖なものを汚したような嫌な感じ、それと同時にこれでまた地域コミュニティから浮いてしまうのではないかという不安。

ともあれ、ばっくれてしまったものはしょうがない。アドヴィルが効いて頭痛が少し治まるのを待って、母のところに面会に行った。母に葬式を香典だけ渡して帰ってしまったことを話すと、「いいんだー、別にそれで」という。まあ考えてみれば実家に戻ってすぐの3年前、近所の人の葬儀に所用があって出れないと嘘をつき、向かいの人に香典を頼んだこともあったのだった。それに比べれば今回は受付までして自分で香典を渡してきたのだからまだ良心的と言えないこともない。比較論で言えば。だが嫌な感じはなかなか拭えない。

罪悪感とはなんだろうか。罪悪感から「感」を取ると「罪悪」、なんか大変なことのように見える。つまりはそれがからくりではないか。実際以上に考えてしまうこと、それが罪悪感なのではないか。まあだったらいいのだけれど。いや、これは気分の問題なのだからあんまりよくない。

ともあれ、母の左足はさらにむくみが酷くなったように見えた。太腿はパンパンに膨れ上がっている。今日も母を歩かせた。母の手を引いて隣のホールを一周二周する。ところが今日の母は、僕が帰ろうとするとまた歩こうかと言うのである。それでまた手を引いて歩かせると疲れたと言うので部屋に戻す。それでまた僕が帰ろうとするとまた歩こうと言う。都合3回歩かせた。今日の母は僕に帰って欲しくなかったのかもしれない。結局今日はいつもより長く、1時間半ほど特養にいた。

特養の帰りにその足で図書館に行って「紙の月」を返却し、また角田光代の禁断症状を起こすのではないかという気がして、昨日本屋で買った「対岸の彼女」を読み始めたばかりだというのに同じ作者の「ツリーハウス」を借りてしまった。

夜、「対岸の彼女」を読んでいて、いくらマイブームだとはいえ、同じ作家を三作続けて読んでいるのにさすがに疲れてきた。だがテーブルの上には今日借りてきた4冊目が置いてある。

葬式から逃げ出した罪悪感はいつの間にか忘れてしまったのだけれど、どうにも気分は冴えない。今日のところは下降線。昨夜寝床の中で「紙の月」を読んで高揚した気分でまた自分でも小説を書こうと思ったのだけれど、一夜明けてみるとどうにも書ける気がしない。それどころか、以前もこの日記に書いたと思うけれど、自分のボキャブラリーがあまりにも貧困であるように思えて鬱屈してしまう。気がつくと昔に比べて自分の文体も変わってしまった、つまりつまらない方に変わってしまった気がするし、まるで自分が言葉というものを失った気がするのだった。それは同じ本を読んだ人の感想ブログを読んでも如実に実感し、自分の語彙がいかに貧弱で、他の人の言葉はいかに豊穣なのかと痛感してしまうのだった。

大体に於いて、今日の僕の行動を「ばっくれた」という言葉の使い方自体、果たして合っているのだろうか?

そんなわけだから本日はすっかり意気消沈してしまった。まあ簡単に言ってしまえば本日のところは朝の頭痛から始まって、葬式から逃げ出した罪悪感を経由し、気がつくといつの間にかすっかり自信を喪失してしまっていたのだった。一言でいえば自分に失望している。

まあだがそれもバイオリズムならぬ相場の波動と同じで、何かの拍子でいつか持ち上がるのかもしれないのだが。それはいつのことだろうか。

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