Don’t think, just do it

ここを読んでいるあなたは、僕の文章量が減っていることにとっくに気づいているだろう。この日記だけじゃなく、例えばfragmentsとかも含めて。もちろん、日記というのはその日の体調もしくは精神状態に左右される。だから1行も書けない日もあれば50行でも足りない日もある。いずれにせよ、総じて最近の僕の文章量は減っている。これは事実だ。実際のところ、かつては頭の中に常に言葉や文章が電光掲示板のように流れていた。それは現実を投影したものであったり、ときには物語であったりした。日々、その日の単なる出来事だけじゃなくて、書きたいことは常にあって、問題はどれを書いてどれを書かないか、ということだった。ところが最近の僕の頭の中には言葉が浮かんでいないのだ。言葉がなければ文章も当然形成されない。かつて僕の頭の中をあれほど賑わせていた言葉は、一体何処に行ったのだろう? それを分析することに果たしてどれだけの意味があるのかは分からない。ひとつだけ挙げれば、頓服の飲み過ぎがあるだろう。それと昼寝のし過ぎ。それで夜ともなると僕の頭はぼうっとしてしまい、気がつくと天井を見上げて放心していたりする。そこには言葉なんてない。砂漠の向こうをとぼとぼと歩くらくだほどもない。僕は考えているようで考えておらず、考えていないようで何かを考えている。たぶん、問題はその間、何もしていない、ということだと思う。少なくとも何も生産していない。今日はとにかく寒い日だったが、特にこれといった酷い症状はなく、昼寝も1時間半程度、頓服も1錠飲んだだけ。にも関わらず、やっぱり気がつくと僕は天井を見上げて放心していたりするのだった。最近出来ることは限られている。その限られた出来ることのひとつ、ギターをしばらく弾いて一休みする。で、ちらっと傍らの時計に表示されているデジタルの数字を見る。それで僕は唖然とするのだ。まだ9時を回ったばかりじゃないか。あれほどギターを弾いて、ネット上のニュースを見て、それでもまだ寝るまで4時間もある。この牛歩の如き時間の進み具合は一体どうしたことなのだろう。この調子ではいつまで経っても今日という日が終わらないじゃないか、と僕は思う。で、その瞬間から僕の鬱屈は始まるのだ。どういうわけか最近になって、しょっちゅう時計を見るようになった。そして、そのたびに僕は憂鬱になる。時間というのは質量を持たない、尺度としての概念であるはずなのに、その尺度が伸びたり縮んだりする。アインシュタインがかつて述べたように。そして、その変化は僕らの都合のいいように伸びたり縮んだりするわけではないのだ。僕の問題は、それを常に自分にとって都合の悪い方に変化する、と思い込んでいる、もしくは感じる、ということだと思う。分かってるんなら考え方、見方を変えろよ、というところだろうが、それは感覚、フィーリングという瞬間的なものなので、なかなか思うようにいかない。男と女のように、第一印象がほとんどすべてを決めてしまうこともあるのだ。で、僕の場合は「ほとんど」じゃなくて「すべて」になってしまっているところが日々僕を悩ませている。そんなわけで、時計を見るたびに、僕は時間や人生というものをいたずらに浪費しているのではないだろうか、という思いに捉われてしまうのだ。解決策を考えるに、もう少し出来ることを増やす必要はあると思う。ジェフ・ベックは丸一日ギターを弾いているらしいが、僕は半日もぶっ続けでギターを弾くことは出来ない。大体、人間の集中力は2時間から3時間と言われている。大方の映画が2時間前後なのにはそれなりの理由があるのだ。

と、気づいてみると、いつの間にか長広舌になっている。やたらと長文の癖に日記と呼べる記述はやたらと少ない。まあいい。何もしないよりはいい。とにかくやることが大事だ。例えそれが何であっても。

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