11月20日、日曜日。
どうも今日は日曜日という感覚が薄い。土曜日っぽい。なんでだろう。
朝目が覚めたら10時38分でしまったと思ったのだが途端に12分ワープして10時50分起床。まあ日曜だからよかったようなものの。で、起きてみると喉がからからで痛かったので風邪でもひいたのかと思った。気がつくと治まっていたけれど。
今日はお試し期間中のNetflixで映画を2本見た。ひとつめはデミアン・チャゼル監督「セッション」。公開当時結構話題になったのを覚えていた。またまたツイートを引用しよう。
『セッション』、映画としては面白かったが、長年音楽を仕事にしてきた者としては噴飯もの。楽器を大切に扱わないものに音楽を教える資格などない。こんな風に罵倒して恫喝して音楽性が身につくわけがない。タイムキープをさせるのであればドンカマ(リズムマシン)に合わせる練習をすればいい。→
— Sukeza (@anykindoflove) November 20, 2016
→しかし、ジャストで寸分違わないリズムキープをするのであればマシンにやらせれば済むこと。ドンカマで練習できないのであればそれは元々リズム感がないということであり、ジャズドラム以前に楽器を弾く素養がないということになる。練習するのもひとつの才能。強要されたり勝ち負けでするものでは→
— Sukeza (@anykindoflove) November 20, 2016
→ない。とまあ、とにかくこんな風に教えられて音楽的才能が育つわけがない。音楽は憎悪や根性でやるものじゃない。エンタメ的には日本でいう典型的なスポ根漫画の世界。それはいいとしても、あまりにも音楽や楽器というものを曲解している。と、愚痴をこぼさんわけにはいかないなあ。
— Sukeza (@anykindoflove) November 20, 2016
ツイートにも書いたがジャズドラマー(を目指す若者)を主人公にした典型的なスポ根もの。鬼教師のフレッチャーがさしずめ「巨人の星」での星一徹というところなのだが、どうにもこのキャラクターが極端で。この手の音楽もののお約束として、最後に見事な演奏があってカタルシスという構造になっている。この映画の場合は非情なフレッチャーと演奏を通じてアイコンタクトする場面で終わっている。これはこれで映画としては面白いので音楽云々というところに全部目をつむればそれなりに溜飲が下がるのだけれども、主人公が何故見事な演奏ができたのかという音楽的理由が抜け落ちていて(この映画のまま受け止めると、まるで「悔しくて」いい演奏ができたというような奇妙なことになっている)、いわゆるドラム合戦的な決着のつけ方と似たりよったりな感じ。つまり、スポ根と書いたように音楽の話なのにまるで勝ち負けの話のような構造になってしまっている。だからなんだか後味が奇妙なのだ。すっきりしない。
そういう点では、同じく最後に見事な演奏でカタルシスを覚えるという分かりやすい構造の映画「オーケストラ!」の場合は、バラバラだったオーケストラの演奏がメラニー・ロラン演じるヴァイオリンのソロイストのあまりに見事な演奏に引き摺り込まれるようにひとつになっていき、素晴らしいハーモニーとダイナミクスを作っていく。その過程があまりにも音楽的であったので、コメディー映画なのに僕はこの演奏シーンを見てぼろぼろと泣いてしまった。
この2つの映画はラストの構造自体は似ているが、動機の音楽性という部分で対照的なものになっている。「オーケストラ!」の方が純粋に音楽的動機なのだ。だからそれまでのどたばたや馬鹿らしさはどこかに吹き飛んでしまい、ただ音楽が必然的に調和して構築されていくさまに感動する。そこを比較すると「セッション」のラストは無理があった。主人公と鬼教師フレッチャーの対立というところに拘り過ぎた。だから最後の演奏がどこか力任せのような印象を受ける。音楽的じゃないのだ。
2本目はドキュメンタリー映画「カルテル・ランド」。
Netflix でメキシコの麻薬カルテルと戦う自警団を追ったドキュメンタリー映画『カルテル・ランド』。犯罪者から地域を守るために出来た自警団がやがて醜悪な姿に変わり始め、政府も巻き込んでカルテルと同化してしまう。メキシコの麻薬戦争はとみに有名だが、実に救いのない現実。
— Sukeza (@anykindoflove) November 20, 2016
題材が題材なので嫌な予感はしていたのだが、やっぱり出てきた。切り取られた首や吊るされた死体。これが現実なのだからしょうがないが、できればそういうものは目にしたくなかった。日本というあまりにも治安がいい国に住んでいるので、メキシコでの日常のあまりの落差に驚く。「シティ・オブ・ゴッド」のようなブラジル映画でも同じ印象を受けた。
死体と言えば。
近ごろずっと気になっているのが、うちの近所の普段は空家になっている家の庭に、ここ二週間ばかりずっと一台の車が停まっていること。その家は町外れの知的障害者の施設がたまに療養所的に使っていて、そういうときは車が2・3台停まっているし人の住んでいる気配が明らか。普段は前述のように空家。毎日車で前を通るので気になってチェックしているのだが、人が住んでいる気配はまったくないし車が動いた形跡もない。どう考えても不自然。で、もしかしたら運転手がアクシデントで車の中で死んでいるのではないかという気がし始め、毎日毎日通りがかってチェックしているうちにだんだん本当に死体があるような気がしてきた。「スタンド・バイ・ミー」的に。その空家の隣は小中学校で同級生だった女子の豆腐屋(工場兼自宅)なので、僕がこれだけ不審に思うのだから隣の家とか向かいの家とかが不審感を覚えて当然なはずなのだが……。これが都内だったら普通に警察に通報(違法駐車っぽいということで)とかしているところだが、田舎だとそうもいかない。一度気になり始めると気になって気になってしょうがない。こうしている間にも運転席で死体が干からびているかもしれないのだ。
そこでとうとう、今日の昼過ぎに業務に行く途中にその空家の前で車を停めて、恐る恐る車を覗いてみた。すると、運転席と助手席は空だった。とにかく、死体はなかった。ところが後部座席は窓にスモークが貼ってあって見えない。うむむ。一瞬後部座席のドアを開けてみるべきかと迷ったが、さすがにそこまでの勇気はなかった。もし開けて死体が出てきたら(どうもその発想から抜け出ることができない)洒落にならない。それに僕は一度逮捕歴があるので指紋を登録されているから、ドアに指紋がついたらいろいろと厄介だ。リアガラスの上の方から覗けそうだとも頭をよぎったが、とにかく僕以外は誰も気にしてないようでもあるし、好奇心を振り切って立ち去った。しかしながら、とすると死体があるとすれば後部座席かトランクの中だな、というような妄想がなかなか頭から抜けない。やっぱり警察に連絡した方がいいのだろうかとか考える。しかし田舎ってどうしてこういうときに気軽に警察に電話できないのだろうか。
そんなわけでこうしている間もあの広い家の庭先に小型車が頭を突っ込んでいる形で駐車している。もしずっとこのままで、雪が積もったりしたら一体どうなるんだろうか? そうなるとさすがに近所の人もおかしいと思うんじゃないだろうか。そこでようやっと死体が日の目を見るのだろうか。
とか妄想はいっかな止まない。あそこにあの車が停まっている限り。まったく、しょうもないことを気にし始めたもんだなと思う。