12月30日、土曜日。
これは30日の日記だけれど、恐らくというか間違いなく今年書く最後の日記になるだろう。明日の日記を更新するころには年が明けているだろうから。
昨夜年賀状を書いていて「平成三十年 元旦」と書いて、そうか来年は平成三十年なのかと。今夜はレコード大賞のような無粋なものは見ずに、YouTubeでイカ天の特番の動画を見ていた。イカ天、つまり「いかすバンド天国」は平成元年に始まって平成二年に終わっていた。記憶に残っているバンドのほとんどが最初の一年、つまり平成元年に出演したバンドだった。ということはもうほぼ三十年前ということになる。三十年。平成元年は天安門事件とベルリンの壁が崩壊した年だ。
1989年。僕は業界の現場に入って四年目、休みは月に2日あればいい方、毎日深夜までスタジオでレコーディングの日々だった。もっとも、そのスケジュールを組んでいるのが僕自身だったが。イカ天は当時のボーヤ(ローディ)に教えてもらった。ギターの北島健ちゃんとかが審査員でボロクソ言ってて面白いと。で、毎週スタジオのロビーで見ていた。まだバブルのころだ。考えてみると、あのころは一番面白かった。表参道の青山通りを走っている車はベンツとかサーブとか外車の方が多かった。そして、その車よりも威力を発揮したのは白紙の領収書だった。僕はタクシーと蕎麦屋の領収書を一冊ずつ持ってた。打ち合わせで落とすために昼食はわざわざ高い店に入った。毎晩深夜2時3時までスタジオでレコーディングして、それから新宿や渋谷のテレクラに行って、明け方に見知らぬ誰かと待ち合わせた。今考えると途轍もなくパワーがあった。何もかもが面白いと思える時代だった。もう一日が過ぎるとそれから三十年なのか。明け方の駒沢通りのデニーズも、世田谷通りのロイヤルホストも、環八のイエスタデイもプレストンウッドも、遥か遠くに過ぎ去ってしまった。
当初は今年を回顧しなければと思っていたのだが、気がつくと平成という時代が始まった三十年前を今日は思い出した。毎日が必死だった。無茶苦茶やってた。それから三十年後の今は、真っ当にならなければと必死になってる。だがたぶんそれももう手遅れ、土台無理なんだろうな。今日も業務に行った。で、唖然とするほどツイていなかった。相場も試行錯誤を繰り返して負け越し、なんだか今年はツイていた日が数えるほどしかなかったように思える。その中でも久しぶりに東京に行った三日間はツイていたのだろう。結果的にその三日間が今年で一番楽しかった。
それにしてもバブルのころのあのそこら中に幸せが充満していた感じ、あれは一体なんだったんだろう? バブルというぐらいだからただの見せかけだったのだろうか。しかし、果たして見せかけだけの幸せなんてあるのだろうか? なんだかいいことがどこにでも転がっている感じ、それはまさしく幸せだったんじゃないだろうか? 考えてみればそれを二十代後半という時期に体験できたというのは、やはり幸運だったように思えてならない。
中古車を買って、深夜の駒沢通りを、246を、環七を、湾岸道路を走り回っていたあのころ。それが例え深夜の3時過ぎであっても、僕は並々ならぬ期待にいつも胸を膨らませていた。詰まるところ、三十年前はまだ何かに期待できる時代だったのだ。
それがどこをどうしてこうなったのか。うつ病になって、震災が来て、癌になって、父が亡くなって、北朝鮮が核実験やミサイル実験を繰り返すようになって。今がとりわけ不幸だと思っているわけではない。三十年前にはネットがこれだけ普及していなかった。スマホなんてなかった。それに久しぶりに訪れた東京は、店員がガイジンばかりで何語が分からない言葉が飛び交う不思議な近未来の街になっていて、それはそれなりに何かしら面白いもの(それが何かは分からない)を孕んでいた。田舎に住んでいるとそういう変化はない。平和といえば平和、そろそろ実家に戻って5年になるが、毎年毎年同じように一年が過ぎていく。本当に何も変わらないように。そして、その中で自分だけが迷走している。三十年前にテレクラで見知らぬ女の子と待ち合わせして深夜の湾岸道路を期待と不安に胸を膨らませて走っていたとき、考えてみればあのときだって迷走していたのだ。
幸せであるように、心で祈ってる。(FLYING KIDS「幸せであるように」)