4月10日、火曜日。
特にこれといったことがなかった日だけれど、強いて言えば町内会のごみ当番だったのでアラームで8時20分に起きた。
正確に言えば起きたのは8時22分で、つまり8時20分にアラームをかけておいて目が覚めたのだけれど布団から出たのは8時22分だった。一見どうでもいいことだが、この2分というのが気になる。なんていうか、相対性理論的に。こんな風に、僕らは人生の中でどうでもいいような時間を数限りなくロスしているのではないか。それを合計すると一体どれだけのアマウントになるのだろう?
アラームで無理やり起きたのにやっぱり夢を見た。何かをしきりに迷っている夢だった。もしアラームをかけずにもっと眠っていたら、恐らく違う夢を見ていたのだろう。僕らが覚えている夢は恐らく起きる直前に見ていた夢なのだ。
— Sukeza (@anykindoflove) April 10, 2018
というような、考えてみれば当たり前のことを考える。しかしながら、例えばあと1時間余計に寝ていたらたぶん違う夢を見ていたのだと考えるとちょっと不思議な気がする。パラレルワールド的な匂いがする。
8時22分に起きてみたらやっぱり眠かった。とにかく朝食後に着替えてごみの集積場を見に行って何もないことを確認し、箒を次の人のところに持って行って戻る。眠いがとりあえず相場の想定をする。で、ちょっとチャートを見る。すると不思議なことに眠いのに眠くないような、微妙なグレーゾーンに突入。しかしながらどこかに眠気はあるのでこれを放置するのは後々よくないと思い、とにかくすっきりした方がいいだろうとベッドに潜って昼寝。1時間で目が覚めるがもうちょっと寝た方がいい気がしてさらに30分追加で昼寝。結局のところ、この昼寝がどれほどの効果があったのかは分からない。要するに<早起きした→眠いに違いない>という先入観の問題だけだと思うが。
理論上は1時間半昼寝したのだから10時に起きたのと大差ないはずなのだが、早起きすると何故か煙草のペースが増える。今日も早々にツイッターで煙草は何本吸ってもオーケーという今日のルール宣言をする。で、とにかく吸いたいだけ吸ってみて何本になるか見てみようと思ったのだが、結局どこかでコントロールしようという気持ちが働くのでなんだかんだ吸いたいだけ吸うというわけにもいかない。
夕方まで相場のトレード。損切りした分を取り戻しただけに終わる。夜は分からないので様子見。先日からアマゾンのプライムビデオで見ていたドラマ版「マークスの山」を最終回まで見た。
ドラマ版『マークスの山』。直木賞を受賞した高村薫の原作を読んだときにもそれほどよく出来た話には思えなかったが、これが原作に忠実に描かれているのであればやはり話を作り過ぎというか、情で動く話というか、お涙頂戴的な陳腐さが。プロットにちと無理があることは否めない。すっきりしない。
— Sukeza (@anykindoflove) April 10, 2018
ことドラマに関しては尋常じゃなく涙もろい僕ではあるが、一生懸命泣かせようという演出であるにもかかわらずちっとも泣けなかった、むしろ白々しい感じがしたのはそれだけ出来の悪い話で出来の悪い演出だったということなんだろう。高村薫は「通俗小説を書いていると思われたくない」みたいな発言をこのころにしていた気がするんだけれども、この話なんかは思い切り通俗的だ。その意味では、彼女の小説ではデビュー作の「リヴィエラを撃て」がエンターテインメントとして一番潔い感じがしたのだが、それも読んだのが随分と昔なので定かではない。「照柿」辺りからどうでもいい話をやたらと力を込めて冗長に書くようになったという印象。つまりブンガクを書きたがっている的な。ちなみに「純文学」というジャンルは日本独自のもので、欧米にはそういったカテゴリーはない。
なんだか今日は妙に小理屈をこねている気がしてきた。草々。