夢という記憶、食事という幸福、ミレニアム

10時前起床。また奇妙な夢を見た。僕はスタジオに篭ってレコーディングしており、ふと気づくと懸賞に当たったのか誰かに譲ってもらったのか、とにかく2頭の家畜、豚とか山羊とかそんな感じのペットを飼っていて、レコーディングにかまけている間に一週間餌をやるのを忘れていたことに気づく。僕はこの家畜というかペットを餓死させてしまうのではないかと急に不安になり、スタジオから帰ろうとするとシャッターが降りて出口が閉まっている。引き返すと何故かそこに小沢一郎がいて、ちょうど帰るところだと言うので後をついていく。どういうわけかスタジオのある建物の1階に民主党らしき政党の本部があるらしく、小沢は党内のメンバーに挨拶をしながら帰っていくのだが、僕はその後ろに間抜けな付き人のようについていく。小沢が挨拶を繰り返すたびに、僕は今にもペットである家畜が死んでしまうのではないかと物凄く不安になる。そして僕は以前にも同じ建物の夢を見たことを思い出す。そして、この建物からは決して出られないことを思い出す。そんな夢だった。夢が不条理なのはしょうがない。もう何度も書いているけれど、僕はとにかく道に迷って帰れなくなるという夢をやたらと見る。それをフロイト的に分析したところで得られるものは何もないだろう。夢は夢であるが故に不条理であるから。

ローマに住む同級生がレストランで菜の花のペペロンチーノを食べた、とFacebookに書いてあって、急にまともなものが食べたくなった。それで昼食は久々に贅沢をしてみようと、駅前の新しいカフェ(と言ってももう2年ぐらいになるが)のランチを食べることにして、テラス席に座った。スープ・サラダ・デザート・コーヒー付きで980円のランチは安いんだと思うが今の僕にとってはとても贅沢な食事だ。煙草が吸えるテラス席に座って、黒板に書かれたランチ・メニューの中にトマトとブロッコリーのペペロンチーノを見つけ、それを頼んだ。すさまじく美味かった。写真を撮ればよかったと思ったが、写真で味が分かるわけでもない。僕は野茂がメジャーリーグデビューを果たした年の記事に頻出した、tremendous(途方もない)という単語を思い出した。美味しいと感じるのは常にそのときそのときの主観的な感覚である。とにかく僕が分かったは、昼食に1000円出すだけで、途方もなくリッチで、幸せな気分になれる、ということだ。もちろんそれは主観的な体験であるだけに毎回必ず、というわけではないだろう。しかし、この店に限って言えば、恐らくローマのレストランよりも美味しいと思う。したがって、かなりの確率で幸せになれると思う。そんなわけで僕は僕なりにそこそこ幸せになり、相変わらず断続的にやってくるしゃっくりに悩まされながらも、ソファに寝転がって、止まらなくなったスティーグ・ラーソン「ミレニアム3」をひたすら読んだ。気がつくともう夕食の時間になっていた。もう残り数10ページになった「ミレニアム3」の下巻を持って、また駅前にしゃっくりをしながら向かった。今日はとにかく食事に関しては遠慮なく食べたいものを食べよう、と思った。しかしながら贅沢をすると言っても限度があるし、高い食事をすれば毎回当たりとは限らない。そんなわけで随分食べていないステーキが食べたいと思い、貧乏人には手ごろなサイゼリアに入る。メニューを見て、とりあえずぱっと見たところこの店でもっとも高いと思われるリブステーキのディアボロ風って奴を頼んだ。とにかくステーキならなんでもよかった。僕が食事を待っていると、隣の席に幸せそうな若いカップルが座った。たぶん、実際に幸せなんだと思う。しかし、男の声が裏返ったような、変な声で、ふと足元を見ると足首が異様に細い。僕のこれまでの経験から言うと、この男の挙動、風情はゲイである。僕は恐らく6:4ぐらいでこの男はゲイ、あるいはバイセクシャルだと思った。別にゲイに対して偏見を持っているわけではない。ただ、人は見かけにはよらないものだという、ただそれだけのことだ。いささか安い晩餐ではあるが、僕にとっては十分美味しかった。帰りがけにドトールに寄ってエスプレッソを飲みながら本の続きを読み、本屋に寄って殊能将之「ハサミ男」と西村賢太編「藤澤清造短編集」の2冊を買い、ついでにジュース屋に寄ってキウィフルーツの生ジュースとフルーツヨーグルトを買って帰った。そんなわけで今日は結構な散財をした。がしかし、今の日本で、昼食と夕食に1000円ずつ出せば、結構リッチな食事をした気分になれるということは分かった。帰宅して「ミレニアム」3部作読了。とにかく面白かった。それぞれ上下巻に分かれているこの本のパターンは、上巻がじれったくてもどかしく、下巻がひたすら痛快、という明快な造りになっているが、「ミレニアム3」は「ミレニアム2」の続編を成しているため、上巻から展開がスピーディでスリリングだ。さすがに3の下巻まで来ると、後はもうひたすらカタルシスが続くのが分かってはいるものの、そこはそれ、ハリウッド映画の予定調和的な痛快さはある。作者のラーソンが発表直前に他界しているため、続編を読むことは恐らく出来ないが、永遠にシリーズが続くよりも3部作ぐらいがちょうどいいのではないかと思う。とにかく、3部作でミステリのほぼあらゆるジャンルを網羅している。さすがにスウェーデンの3分の1が読んだだけのことはある。日本の人口比率で考えると、日本でだったら4000万部以上売れたことになる。あの「ノルウェイの森」の10倍以上だ。そう考えるとちょっとびっくり。久しぶりに小説を書こうか、などという考えが頭にちょっと浮かんだ。それにしてもこのしゃっくり、いつになったら治まるのだろうか。

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