8月30日、金曜日。
朝、9時45分に特養からの電話で起こされた。それによると、病院から特養に連絡があって、母の退院に備えるために来週の火曜日(3日)の3時に特養の職員が病院に打ち合わせに行く予定になっているということだった。それを聞いて、えっ、もう退院、と思ったのは、例の母の座骨の骨折が2・3週間はかかるという話だったのでもっと入院が長引くものと思っていたからだ。しかし整形外科医の話として、安静にしていれば必ずしも入院している必要はないということだったのを思い出す。とすると、治ってからのリハビリの問題は残るが、母はどうやら思ったよりも早く退院できそうだ。
昨夜寝たのが3時過ぎだったので、昼頃に1時間ほど昼寝したらかえってだるくなって具合が悪くなった。そんなわけでまたベッドに寝転がって本を読み、馳星周「長恨歌 不夜城完結編」読了。
馳星周『長恨歌 不夜城完結編』読了。馳の初期作品は誰もが裏切る。誰も信用できない。それを徹底することで非情さを描こうとしているが、それが故に絶望と嫌な後味しか残らないのは宿命。それはある意味負のカタルシスなのだが、今作の場合は偶然と主人公の過剰なセンチメンタリズムが余計だった。
— Sukeza (@anykindoflove) August 30, 2019
こんな風に書くと面白くなかったと思われるかもしれないが、実際はそれでも面白かった。馳星周の小説はひたすら毒を飲んでいるような中毒性がある。あらゆる人間は裏切り、最後にろくでもない結末が待っているのが分かっていて、読みながらそれを期待して待っている自分がいる。その結末が酷ければ酷いほどいい、みたいな。ある種の絶望依存症みたいになってしまう。これがツイートにも書いた負のカタルシスだが、これは詰まるところマゾヒスティックなものなのかそれともサディスティックなものなのか区別がつかない。
病院に行く前に図書館に本を返しにいって、迷いに迷った挙句結局また馳星周の本(比ぶ者なき)を借りてしまう……。困ったものだ。
4時ごろに母の病室に着くと、今日も母は元気でよく喋った。驚いたのは昼食を車椅子に座って摂ったということで、手術前はあれほど骨折箇所を痛がっていたのにと不思議に思ったくらいだ。で、実際ベッド脇の簡易トイレで用を足せる(もちろん介助されてだが)くらいになっており、自分が帰るころにはCTの検査があるということでベッドに腰掛けていても平気なのにも驚いた。どうやら母の骨折もそれほど酷いものではなかったようだ。いずれにせよ母の回復度合いは極めてよく、これなら来週退院の予定が立つのも不思議ではない。
病院の帰りに久しぶりに本屋に立ち寄った。このところあまりにも馳星周ばかり読んでいる(おまけに今日も借りているのだが)ので、図書館に置いていない本を買って帰ろうと思った。ドン・ウィンズロウ「ザ・カルテル」上下巻か本橋信宏「全裸監督」のどちらかを買おうと思っていたのだが、驚いたことにどちらもなかった。「全裸監督」はメルカリでもすぐ売れてしまうようなので分からないでもないが、文庫の「ザ・カルテル」までないとは。この県内でも五指に入るくらい大きな書店(八文字屋天童店)、何か月前だかに模様替えして書籍の置いてある場所が変わったのだが、どうもそれ以来置いてある書籍の数が明らかに減っている。特に外国文学とノンフィクションは貧弱な品揃え。店舗面積は変わってないのだから一体本を減らして何を増やしたのか、一見してはよく分からない。結局、図書館にあるのは分かっているが、常に貸し出し中で当分順番が回ってきそうもない、今話題の中国のSF、劉慈欣「三体」を買って帰る。中国の小説というと物凄い評判がよかった閻連科「愉楽」を読んで物凄くがっかりした覚えがあるので、もしこれがつまらなかったら二度と買わない。つもり。
それにしても涼しくなった。今日はまったく冷房を入れずに済んでいる。なんだか体調がよろしくないのも季節変わりという奴だろうか。