彼岸と此岸

3月24日、金曜日。

10時32分起床。

日中業務も、情けない話だが勝つために手駒を小さくした。ドレッシングを買うのを忘れていて、結局今日もスーパーに買い物に行く羽目になったが、昨日の二の舞にならないように気をつけたのは当然。

親善試合、日本 1-1 ウルグアイ。内容に見合った結果で、特に言うべきことはない。強いて言えばなんで先発FWが浅野だったのかということぐらい。後半途中から上田綺世を出しても、彼にはとうとうひとつもまともなラストパスは来なかった。

昨夜風呂に入っていて、昨日の日記にも書いたように今週あまりにもツキに見放されているので、今自分はもしかしたら不幸なのかもしれないと思った。だがパニクっても、感情的にも今週はなっていなかった。結局のところ、人生はこんな風に幸せと不幸の間を行ったり来たりしているのかもしれない。ただ人によって振幅の幅が違うだけで。

子供のころ、この山形の田舎町で神童扱いされていた。しかし小学校のとき計ったIQは120という平凡なものだった。随分後になって、大人になってからネットでIQを計ったら140ぐらいの数値が出たが、実際のところは120台後半といったところだろう。要するに凡人の域を出ない。

大学に入って、最初に僕をまともに評価してくれたのがヨウタロウだった。当時のヨウタロウは少女漫画から出てきたような美少年で、父親は東大の教授で僕らが使っている辞書を作っていた。フランス人で、かつ聖職者でもある教授ですら、ヨウタロウの父親の機嫌を訊ねるくらいだった。そのヨウタロウが言うには、クラスの女子の半分はスケザに惚れているというのである。もちろん妄想に違いないが、とにかく彼は何故か高円寺から徒歩5分の、日の当たらない風呂なしトイレ共同の僕の四畳半のアパートに入り浸っていた。やがてキーボードのヤマザキが現れて僕らがバンドを組むと、サークルの中で皆の見る目が変わった。僕自身は何も変わっていないのに。

業界の現場に入って新川のマネージャーをやっていたころ、僕がやっていたのはただひたすら仕事を断ることだった。それだけ新川は当時売れていた。僕には営業力がなかった。ただ来る仕事を選んでいただけだった。それでもいつの間にか僕は有能なマネージャーとしてみなされるようになって、椎名が僕にマネージャーをやって欲しいと頼み始め、僕は固辞した。自分には仕事を取ってくる力がないと知っていたからだ。

松任谷由実の原盤ディレクターをやるようになって、それまで僕を若造扱いしていた人の評価がころっと変わった。松任谷さんが僕にボーカルのチャンネルセレクトを任せるようになったからだ。その後雲母社を辞めてからも、童顔ではないのにしばらく初対面の人には若造扱いされてナメられた。それは40代になるくらいまで続いた。

自分でプロデュースするようになって、テレ朝の番組関連でインディーズのバンドをプロデュースするようになると、僕のことを天才プロデューサーと呼ぶ人が現れるようになった。僕はそのころからうつ病を発症し、今に至るまで20年以上精神科に通い、向精神薬を飲み、睡眠薬を飲んでいる。多剤処方で薬の副作用で死にかけたこともある。

最初にバンドを組んでから40年後に、ヨウタロウとヤマザキと再びバンドをオンラインで再始動した。僕以外の二人は40年間楽器を弾き続けていた。もう立派なプロのミュージシャンになっていた。しかしいまだに僕はヤマザキの演奏に足りないものが分かるし、ヨウタロウに足りないところも見える。

長々と書いたが結局何が言いたいのかというと、僕は他人をプロデュースすることはできるが、自分をプロデュースすることはできない、ということだ。幸せと不幸の間を行ったり来たりすることにも慣れてしまった。気分の病気になって、気分で生きることに慣れてしまった。たぶん、それが僕の不幸でもあり、幸運でもあるのだと思う。

カテゴリー: 未分類 パーマリンク