緑の家

久々に朝書く日記。今日は椅子の上で眠りそうにない。ここ3日続けて朝椅子の上で眠りこけていたのはどうやら新しく処方されたラミクタールのせいっぽい。昨日は飲まなかった。

で、ようやっとバルガス=リョサ「緑の家」読了。途中まで読んだ段階で、去年のノーベル文学賞を村上春樹じゃなくてバルガス=リョサが受賞したのは当然だと感じた。この作品は60年代(68年)の作品だが、とにかく小説を書くスキル、イマジネーションが凄い。いわゆる群像劇あるいはサーガの形式で書いているが、とにかくぎっしりと物語が詰まっており、その密度が半端ない。視点とともに時制がめまぐるしくなんの前触れもなく入れ替わり、それはひとつのパラグラフの中ですらそうで、読者を振り回し、困惑させる。だが、バルガス=リョサはそれを把握しろというメッセージは発信していない。彼はただ読め、と発信しているだけだ。同じ南米出身の作家、ガルシア=マルケスの「百年の孤独」もやたらと登場人物、エピソードが多いサーガだったが、こちらは時系列通りに物語が進んでいた。「緑の家」はさまざまなエピソードがばらばらに叙述されており、それらが小説の終盤になるに連れてピースがひとつひとつ繋がっていく、という基本的には群像劇のスタイルを取っている。だが、マルケスの「百年の孤独」に比べると最後に圧倒的なカタルシスは待ち受けていなかった。どちらもすべてが伏線になる手法を取っているが、「緑の家」の方は重要な役割を担っていると思われていた登場人物の何人かは放っておかれたまま終わってしまう。ピースが合致するたびにカタルシスを小出しにしたのはいいが、その点が残念だ。ただこれだけの数のエピソードを同時進行、それも時制もばらばらに進行させるイマジネーションは驚嘆せざるを得ない。僕が物足りなく感じたのは最後だけだ。最後まで読んで、改めてポール・トーマス・アンダーソンの映画「マグノリア」は傑作だと思った。あれも同じ群像劇だが最後に圧倒的な救済がある。ポール・トーマス・アンダーソンは天才だと思う。それはその後続く作品としては小品の「パンチドランク・ラブ」で、道端にオルガンが捨てられるショットを見たときに確信に変わった。

そんなわけで「緑の家」は退屈する暇もないほど面白い作品で、その高いスキルから他の作品を読んでみたくなる。が、作品としてはやはりマルケスの「百年の孤独」の方に軍配が上がると思った。

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