What Are You Doing The Rest Of Your Life

相変わらずボロボロに疲れている。擦り切れたボロ雑巾のように疲れ果てている。

2時就寝、7時5分に起床、朝は雨。朝食後燃えるゴミを出す。

午前中は母を精神科の病院へ連れて行く。母の眠気が強いことを訴えると、抗精神病薬が若干減った。といっても、リスパダールは変わらず、セロクエルの量が減っただけだが、少しでも眠気が改善されればいいのだが。

母と昼食後、午後は少々業務、帰りがけに買い物、それから町役場に寄って母の介護関係の書類を出し、ついでに車の名義変更用の住民票をもらって帰る。帰宅後、夕食までソファで気絶。もうこのとき既に限界まで疲れていた。

夕食後、母が洗い物を最近しきりに気にするので、母が洗う様子を傍で見ていた。すると、母は洗い物の仕方を忘れてしまったようだ。僕は思わず最初に怒鳴ってしまい、それから僕のことは忘れないで欲しいと言って少し泣いてしまった。実際、夕食後の母は呆けてしまったといってもいい状態だった。神経内科でMRIを撮っても、昨日救急センターでCTを撮っても脳に異常はなく、認知症ではないと医師に言われてはいるのだが、その後放心している母の顔つきは明らかにどこか空っぽだった。いまだに一日のうちで調子の波があるにしろ、そうした状態を見ていると、本当に呆けてしまったのではないかと絶望的な気分になる。それでなくても僕はもうボロボロなのだ。

母が入浴するときは背中を流し、髪を洗うのを手伝う。風呂から上がると背中と髪を拭いてやり、弾性ストッキングを穿かせる。

風呂上りの母はしばらく台所で何もせずに座っており、例によって洗い物のことやらを考えている風だった。しかし、先ほどまでと比べると幾分穏やかな表情にはなっていた。まだ11時前だというのに、僕はもう眠気を感じていた。あらゆるものが、空気すら重く肩にのしかかるようだ。穏やかな顔で洗い物の仕方を忘れてしまった、風呂に入るとお前に迷惑がかかると話す母を見ていると悲しくなる。

今の母を見ていると、僕自身が大変であるとかいうよりもむしろ、老境にさしかかった人間はどう生きればいいのだろうか、などということをふと考えてしまう。いずれは僕もこんな風にいろんなことを忘れてしまうのだろうか、とかそんなことを。そしてそのときは僕は間違いなくひとりぼっちだ。まあそれより早く死んでしまう可能性もあるが。

今からこんなことを考えるなんて。もちろん僕は前々から言っているように考え過ぎるのだ。そして僕は疲れている。放っておくと沼の底にずぶずぶと沈んでしまいそうに疲れている。ありとあらゆるものに疲れ果てている。何もかも忘れて眠ってしまいたいほどに。しかし、例えそうしたとしてもまた次の一日が始まるだけだ。今の僕にはストレスと疲労の区別がつかない。たぶんそれはほとんど同じものなのだ。

こうやって日々を生きて、いずれ何かが好転するのだろうか。ただそれを待って生きて。そのうちこんな生活にも慣れて、どこかで少しだけ楽天的になっていい加減になって。だが、それは投げやりとどこが違うのだろうか。人はどこまで耐えて、頑張るべきなのだろうか。

僕は、母は、これから何を見るのだろうか。窓外で鳴く虫たちの声に耳を澄ませてこうやって深更に日記を書いていると、昨晩同様寝ていた母が起きてきてまだ起きているのかと言う。僕はそれをなだめて寝室へと連れて行く。僕は大丈夫だと母に呪文のように言い聞かせる。もちろん、それは自分自身に言い聞かせているのだ。

今日の煙草は20本。

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