アンビバレンス

恐らく何度も書いていることだけれど、僕らは世界を主観的に見ること、認識することしか出来ない。したがって、世界は主観的にしか存在していない。

今日の僕は酷い抑うつ状態だった。というか、今でもそうである。今朝も母は昨夜同様酷い状態だった。僕の抑うつ状態は母の状態にシンクロしている。午後業務から帰宅すると、母は午前中よりマシになったように見えた。しかし、夜になってからの母の言動をよく観察してみると、昨夜とさして変わらない。結局のところ、それは僕から見た母の状態に過ぎない。つまり、冒頭に書いたように主観的なものに過ぎない。だから時々刻々と印象が変わる。それは僕の精神状態が変化しているということだ。先日の日記に母は僕を映す鏡だと書いたが、まさにそういうことだ。今日の僕は時間が経過するにつれて形骸化していった。もうゲームをやらなくなって長いこと経つが、ロールプレイングゲームでいうところのHP(だっけ?)が限りなくゼロに近い。希死念慮が頻繁に僕の頭を出入りする。何も出来る気がしない。だがそれでも今夜も僕は食事を作り、母を風呂に入れ、薬を飲ませ、着替えを手伝って寝かせる。

今回サーバを移転して分かったのは、この日記を読んでいる人がほとんどいないということだ。以前のサーバのアクセス解析を見ると(昔に比べると)大量のアクセスがあったのだが、それは恐らくほとんどサーチエンジンのロボットによるものなのだろう。今のところこれを読んでいると思えるのは同級生のJ、あともしかしたら後輩、かつての仕事仲間のFちゃん、それぐらいしか思いつかない。この結果は当然のことながら僕を非常に虚脱させた。僕はとうの昔に世界中から忘れ去られていたのだ。だが、考えようによってはヘンに勘違いをし続けるよりはよかったのかも知れない。所詮主観的なものにしろ、真実を知るに越したことはない。それとも、知らないに越したことはないのか。正直、今日のように鬱屈しているときにこういう事実を突き付けられると応える。本当に、実は自分という人間は存在していないのではないかとさえ思える。

しかし、世界が在るということは僕が存在しているということを(皮肉にも)証左している。僕がいくら脱力して抜け殻のようになろうと、僕のHPが完全にゼロ、もしくはマイナスになろうと、世界はそこに在る。大分前にどこかに書いたように、主観的には世界は終わらないのだ。

いろんな意味で、あるいは単なる気分として、今日の僕は悲しい。母の虚ろな表情、目を見ているともう白雪姫のように一日中寝続けたいとさえ思う。どうせ僕はデータとして、数値的にはほぼ存在していないのだ。この虚無感は半端ない。まるで自分が次第に透明になっていくようだ。僕はほとんど認識されておらず、そして僕は自分自身を認識したくないとさえ思う。ここまで自分の存在が希薄に思えると、毎日仏壇に祈ってもどうりで亡父が僕をちっとも助けてくれないのも道理だと思う。

僕は客観性や数値を求めてあがいているわけではない。くどいようだが主観の問題だ。僕は主観的に存在していたい、あるいは正反対に存在していたくない、という風に思う。アンビバレンス。

もういくら煙草を吸ってもいいと思っているのだが、また眩暈がする。今日の煙草は22本だった。昼寝をして嫌な夢を見た。

僕がこの町に戻ってきてからもう9か月になろうとしているが、いまだにこの町に住む同級生や友人とただの一人とも言葉を交わしていない。連絡を取ってもいない。ある意味、僕は存在することを止めているようなものだ。

ああ眩暈さえしなければ。僕は煙草をひたすら吸い続け、末井昭言うところの緩慢な自殺をするところなのだが。死にたいわけではない。これもまた、アンビバレンス。

僕は武蔵浦和に住んでいたころの、僕が世界の果てと呼んでいたマンションのベランダの手すりの上すら失ってしまった。今こそ、僕にはあそこが必要だというのに。

台風の日、雨はまだ降り続いている。


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