気絶マシーン

夕刻、精神科に行った後、完全に日が落ちたころにスーパーに買い物に出かけると外は霧に煙っていた。

それにしても今日は寝た。眠る男。とにかくコタツに入ると自動的にスウィッチが入ってしまうように寝入ってしまう。不思議なことに、コタツで寝ると夢を見ない。脇で母がテレビを見ているせいだろうか。目が覚めるタイミングの問題なのか。精神科でも今日はやたらと待たされて、椅子に横になって寝てしまったし、今日一日で3度気絶した。なんでこんなに寝るのだろうか。確かに相変わらず何をしたらいいのか分からないというのはあるが、まるで他に選択肢がないようにすぐ寝てしまう。

精神科ではまだ僕は何かきっかけがあると自殺してしまう可能性があるみたいなことを言われたが、それはたぶん、僕が調子の悪いときの希死念慮の話をしたせいだと思う。僕が「ダイレクトな」自殺をすることはあり得ない。確かに「死んでしまいたい」とか「生きていたくない」などということがしょっちゅう頭をよぎるが、せいぜいが煙草を吸いまくって寿命を縮めるというような、末井昭言うところの「緩慢な自殺」をする程度だろう。

そう考えてみると、やたらと寝てしまうのもある種の擬似的な自殺みたいなものである。睡眠はどこか一時的な死に似ている。違いは目が覚めるかどうか。ある意味僕らは毎朝蘇生している。一時期僕はそれがとても怖かった。現実世界に戻るのが。それは絶望へと舞い戻ることだったから。それとパーフェクトな意味での死を求めることは異なる。自殺とは強制終了だ。僕がしたいのはそういうことではない。そもそも「したい」という表現自体に違和感を覚える。それは欲求ですらないのだから。

今ふと、やたらと昼寝をすることとリストカットを繰り返すことの共通点、みたいなことが頭をよぎったが、たぶんそれは似ていて非なるものだ。「繰り返す」という言葉の単なるギミックだ。第一僕はリストカットなどしない。

今日は3時間ほどの業務。煙草は21本。困ったことに塩野七生「ローマ人の物語」、いまだに教科書を読んで勉強している感じが抜けない。というか、本を読むこと自体に興味を失いかけている。何を読んでも楽しめない。そういえば昔、うつが酷かったときに本のページを開くことすら出来ない時期があった。

今日は母の血圧が朝から低く、寝る前に計ったら上が100なくて心配した。幸い明日は母を総合病院に連れて行く日だ。よって明日は業務は休み。今月一杯やっている、うちの先祖(彫刻家)の展示でも見に行こうか。


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