というわけで、昨日から始まったスコットランド独立の国民投票は本日結果が出て独立しないことになった。大方の人には多少興味はあっても基本どうでもいいやということだろうけど、こと相場の世界では滅多にお目にかかれないイベントである。どうやら反対派が有利という事前情報が流れ始めた昨夜からポンド円はどんどん上がり始め、開票が進むに連れてさらに上がり、上がり、どこまで上がるんだという世界。ドル円やらクロス円も今日になってつられてどんどん上がる。で、独立しないという結果がほぼ確定すると、今度はどんどん下がり始めた。どこまで下がるのかという勢い。特にポンド円はその上下が半端なかった。
ところが僕は昨日のポジションを持ち越したために、このお祭り騒ぎには乗っかれなかった。いや、乗っかったと言えなくもないのか。僕はユーロドルの売りのポジションを3つも持っていたため、ポンド円に乗るどころではなかった。昨夜は結局3時まで監視していたのだが一向に下がる気配はなく、このまま選挙結果で暴騰したらどうなるのだろうという恐怖を頭の隅に覚えつつ、まあいいやと少々投げやりというか後は成り行き任せとばかりに3時過ぎに睡眠薬を飲んで寝てしまった。で、一時はかなりの額のマイナスを抱え込んでいたのだが結果的にはプラスに転じた。母のところに行く前に決済したので少々(というかかなり)見切りが早過ぎたが。
そんなわけだから朝目が覚めたときはもう9時50分だった。夕方までは相場のチャートとにらめっこ。しかし、途中から下がり始めたので、午後ようやく室温が上がって来て暖かくなった頃合に窓際に置いた一人掛けのソファでサリンジャーを読んでいると例によって眠気に襲われて小一時間ほどうとうとした。で、目が覚めると朝から寒くてパーカーを羽織っていたのが今度は暑くてTシャツ1枚になるという始末。まったくもって寒暖の差が激しい。もちろん夜は寒い。今日からパジャマ(というか作務衣)を夏用から秋冬用に変更したほど。
最近安定剤を3錠定期的に飲むようになってからそこそこ精神的には最悪にならない程度のところに落ち着いてはいるものの、このところの傾向としてむしろ昼寝しているときの精神状態の方がよくない。昼寝しながら、ああこれは人生の無駄遣いだなどと思ってしまう。かといってじゃあ起きている間にこれといって何をしているわけでもなく、夜寝るときには別にそんな風には思わないのだが。
昼食はまたサンドイッチを作ったのだが、今日はチキンサンドイッチにしてみた。
しかし、見た目もそうだが味付けが一緒なので昨日までと大差なかった。もうひとつ工夫が必要なようだ。
ふと気がつくと今日は階段の昇降をするのを忘れた。が、もう風呂に入ってしまったので今日は諦めよう。
夜は何をしていたのか。はて。週末なので夜からはもう相場のポジションは持たないようにしたし、かといってこれといって何をしたわけでもない。ただなんとなくネットをしているうちに夜が更けてしまった印象。というわけで、最近はもはや終わった感が半端ないしほとんど見に行かないのだがミクシィで久々にマイミクの人の長文を読み、その人はかつて村上春樹のコミュニティで知り合ったのだがもちろん僕よりも随分若い人で、その瑞々しくかつ適切な言葉を使った文章にいたく感心し、同時にかつて小説を書いていたころの自分を思い出した。
というわけで以下ツイートから引用。
気がつくと、僕は自分が表現するということをほとんど忘れかけていた。というか忘れてしまっていた。つまりそれは自ら溢れ出るものに対して予め蓋をしているようなものだ。逆に言えば蓋をする癖がつくと、溢れ出ないようになってしまう。
— Sukeza (@anykindoflove) September 19, 2014
彼の文章を読んで痛感したのはまず最近の自分の語彙があまりにも貧しくなっているということ。どうも手癖で弾くギターのフレーズみたいな文章になってしまっている。それはつまり、前掲のツイートにあるように「表現する」というマインドをどこか失ってしまっているということなのではないかと思った。実際、この日記に関してだけ言えば記録・備忘録という側面がかなり強い。近頃の自分の記憶力があまりにも悲惨なので、半ば義務的に記録している。考えてみれば、先日2年振りに書いた曲を除けば、僕はもう随分と長い間表現すること、特に文章で表現することを忘れていたことに気づかされた。それはこのところの日中何も出来ないということ、何かやっても何もしていないような気がするという感覚の根底に通じるものなのではないかと。どうやら田舎の実家に戻ってからこの方、僕は自分自身にずっと蓋をしてしまっているようなのである。自分でも気がつかないうちに。
この煮詰まり方というのはどうも現在の母の行き詰まり感に同調している節がある。
母はしきりに「どうしたらいいか分からない」とこぼすのだが、一番頭が痛いのは「何が」「何を」ということすら分からないという点。つまりこの問いは最初から袋小路なのだ。そのたびにどうしたら母を救えるのか考え込んでしまう。僕の母を救いたいという気持ちだけが宙に浮いてしまう。
— Sukeza (@anykindoflove) September 19, 2014
これは自分でも常々感じていることなのだが、恐らく性格から来ているのだろうけど僕はどうしても母に過度に感情移入し過ぎる傾向にある。したがって、一緒になって頭を抱えてしまうのである。たぶん、僕はもう少し自分自身を切り離す必要があるのかもしれない。それは母から自分を切り離す、単に母から距離を置くということではなくて、別個の人格としての自分自身を解放するという意味に於いてである。
結局のところ、音楽業界というところで制作に携わっていた手前、僕は長いこと表現者として生きてきた。だからもう少し僕は表現すべきなのではないか。自分を巻き戻し、少しだけ原点に立ち返るべきなのではないか。そしてそれは、例えばサンドイッチの作り方をもう一工夫するというようなことでもいいのだ、たぶん。
ここのところ僕はずっとコミュニケーションの在り方を模索してあがいてきた。今日は少しだけヒントが見えたような気がした。闇雲に誰かにリアクションを求めるのではなく、まず自分が発信することだなと。考えてみれば当たり前のことだ。しかしながら、それにはまずもっと余裕が必要だな。実はこれが一番難しいのだが。