帰省中は8時間ぐらい眠れたのに、こっちに戻ってくるとやっぱり6時間ぐらいで目が覚める。そういえば昨日書き忘れたのだが、帰省中に2晩続けて夜に母親と散歩をしたのだが、2日とも途中で見知らぬ若い女性と擦れ違ったのだが、2人とも「こんばんは」と声をかけてきた。母親は普通に「こんばんは」と返していたが、僕はえっ、という感じだった。明らかに知らない人だったから。つまり、田舎では見知らぬ人はストレンジャーとして認識されない、ということだ。ある意味アメリカ的でもあり、まったくアメリカ的ではない、とも言える。どうも僕はいつの間にかEnglishman in New Yorkになってしまっているようだ。
帰省してからずっと読んでいる福永武彦の「海市」、半分以上まで我慢して読んできたが、主人公への嫌悪感から今日は読んでて頭痛がして、とうとう放り投げた。久しぶりに頓服を飲んで2時間ほど寝たが、夢の中でも頭痛がした。とにかくこの小説、2ページに1回ぐらいの頻度で「愛」と「魂」が出てくる。愛と魂の大安売り。意図的なのか、福永は「愛」と「恋」という本質的に異なるものを完全に混同している。まるで洋楽の歌詞みたいに愛を連呼する。主人公の女々しさにはほとほと呆れ果てる。まるで男性的な魅力がない中年男の主人公が、ただ画家だけであるというだけで偶然出会った女性といきなり恋に落ちる、というのはあまりに安易だ。主人公が藝術を連発するのにも閉口、自分で自分を「芸術家」と称する自意識過剰人間。おまけにマザコン。スノビズム+センチメンタリズム=ナルシシズム、って感じで、とにかく出てくる人物で人物造形してあるのはすべてインテリゲンチア、他の人たちはただの書割に過ぎない。自分を抑制出来ない主人公が大袈裟にはしゃいで騒ぎ立てるラブ・シーンにはほとほと呆れ果てる。いくら昭和40年代とはいえ、こんな奴がモテると考える作者のセンスのなさ、安直さにはただただ唖然とするばかり。主格が入れ代わる構造じゃなければとても読み進めない。キスならぬ接吻をしたり服を脱がせるたびに美だの生きるだの死ぬだのと大騒ぎする主人公には、感情移入どころか嫌悪感しか覚えない。もし僕が女だとしたら、こんな奴だけは好きにならないだろう。これを2回読んだという川端康成もどういうセンスなのか。「愛」を描くと言って「愛」を連発するのは新聞の折り込み広告みたいに滑稽だ。