土曜日。
三度寝ぐらいして9時ごろ起床、なんとか7時間睡眠。今日も午前中何をしていたか記憶にない。ただ手帳には煙草を吸った時刻だけが書いてある。大方、ぼんやりとPCに向かってネットをしているうちに過ぎたのだろうと思う。
1時に予約していたので隣町のディーラーに行きタイヤ交換。終わって2時ごろに帰宅すると弟から電話があり、これから母を連れて来るという。今日の母はとても普通だった。というよりもとてもしっかりとしていた。言うことも筋が通っており、僕は年賀状を出すように説教されたぐらいだ。表情も目つきも凄くまともだった。
3時半過ぎに弟は母を特養に連れていき、そのまま仙台に帰った。僕はそのまま茶の間のコタツでフォークナーを読んでいた。すると、そのうち気分が悪くなりまたコタツで寝てしまった。隣組長が町内会費を集めに来て起こされた。もうすっかり日は落ちていた。気がつくと、僕はまったく何に対しても興味が持てない状態になっていることに気づいた。ふと思い返すと、先ほどまで母と弟と3人でコタツで談笑していたことが最近になく幸せなことだったのだなと思った。父がいない今、残された3人で過ごしたほんの少しの時間。それは弟と母が帰って自分一人になってみると、とても幸せな時間だったことに気づいた。そして僕はその反動というか、ちょっとした燃え尽き症候群みたいな状態になっていた。何かが終わってしまったような、上手く言えないが幸せの後遺症に陥ってしまったような状態。僕はすっかり抜け殻のようになり、ああそれで気分が悪くなったのかもしれないなと思った。
なんとかレトルトのカレーで夕食を済ませてもまったく何もやる気が起きなかった。煙草の本数だけが増える。呆然とPCに向かっていたが、そのうち意を決して(というのも大袈裟だが)先日見た「バベル」がとてもよかったイニャリトゥ監督の「21グラム」をhuluで見た。時間軸が目まぐるしく交錯するので一気に最後まで見れる巧い構成になっている(と言っても僕の場合は2・3度中断したが)。この辺は「バベル」と同じような造りだ。と思ったら脚本も「バベル」と同じ人だった。どうりで複数の登場人物と時間が交錯するという同じ構成になっているわけだ。ただ、「バベル」と比較すると「21グラム」はどこか納得がいかなかった。ただひたすらやりきれない話だった。基本的にこの脚本家(ギジェルモ・アリアガ)の書く話はそういう傾向にあるようだが、「21グラム」に関して言えば救いがなかった。これが「死」に関する話なのか「生」に関する話なのか判然としないところがあった。簡単に言えば、希望と絶望のバランスが上手く取れなかったような感じだ。すとんといいところに落ちてくれなかったという印象。そういった意味でのカタルシスはなかった。ただ目まぐるしいカット割りで最後まで見せる手法は巧いなあと思う。それと、相変わらず音楽の使い方も絶妙。
これを書いている今、錦織がジョコビッチと対戦している。最初風呂上りに見ようと思って台所の暖房を入れていたのだが、最初のセットを1-6で落としたので気が変わった。ところがこの日記を書いている最中に第2セットを6-3で奪い返した。しょうがない、これは見るしかないだろうな。
それはそうと、タイヤ交換に出したら夜買い物に出たときに気がついたのだが車内灯がバカになった。ドアが開いているときだけ点くようにスウィッチを設定しても点きっ放しになってしまう。明日ディーラーに電話しなければ。めんどくさいなあ。
追記: 錦織の試合、台所に行って見始めたら第3セットは既に0-5、あっという間に負けてしまった。僕が見ている間はいいところなしだった。