2月15日、日曜日。
8時45分起床。一日中雪が降り続いたというわけではないのだけれど、結果的に3度雪かきをした。今日は業務に行ってしまった。で、案の定無駄骨。なんていうか、ツイてないというよりも普通に起こることが起こっているだけであって、要するに自分が欲しているほどツイていないということなのだなと思う。つまり、不ヅキが続くとそろそろツイてくるのではないかという無意識下の願望があって、結果としてツイているかいないのかという両極端の見方しか出来なくなってしまうという人間の心理。いつの間にかツキだけが物差しとなってしまう。まったくやれやれとしか言い様がない。
3時半に精神科。しかし行ってみると待合室がやけに混んでいる。看護師に訊いてみると1時間は待つというので向かいの喫茶店でウィンナーコーヒーを飲んで時間をつぶす。このウィンナーコーヒーが恐ろしく不味かった。診察では医師にどうかと訊ねられても答えに困った。自分でもよく分からない。酷く煮詰まっている時期が長かったように思えるが、昨日辺りからドラマを見続けていたりもするので、1ヵ月というスパンでの自分の状態がすっかり訳が分からなくなってしまい。もう随分前から医者の方でも治療に煮詰まっている。今日も薬も含めて何かいいアイディアがありますかと僕に訊ねてくる始末。結局薬は変わらず。
今日も昨日から引き続きhuluでドラマ「深夜食堂」を見る。で、ときおり涙ぐむ。1話が30分と短いし、毎回誰かしらがちょっとずつ幸せになるので延々と見続けてしまう。フォークソングの類は苦手なのだが、オープニングを歌っている鈴木常吉と挿入歌を歌っている福原希己江は凄くいい。ぐっと来る。恐らく映像・ドラマとの相乗効果だとは思う。単体で歌を聴いたらここまで感情移入出来てはいなかったと思える。
不味いウィンナーコーヒーを飲んでいる間にフェルディナント・フォン・シーラッハ「禁忌」読了。正直言ってがっかりした。最初に読んだ「犯罪」があまりにも新鮮で強烈だったので、どうも期待し過ぎたのか。作を重ねるごとに読み手の自分のテンションが落ちていく。以下ツイートから。
シーラッハ『禁忌』読了。うーん、シーラッハ、どんどん普通になっていく。元々削ぎ落された文体で表層的に物事を描く作家ではあるが、今回は事件そのものの底が浅い気がした。そこには人間の業というものはなく、作者や訳者が語るような深さは感じられなかった。長編向いてないのでは、と思う。
— Sukeza (@anykindoflove) February 15, 2015
シーラッハ『禁忌』続き。善でもなく悪でもない、ということ自体が本質であるかどうかはともかくとして、その深さを読み取るのが読者の裁量に委ねられるというのは正直言っていただけないと思う。誰が読んでも伝わる、腑に落ちるものがないと。それこそが物語の存在意義ではないのか。
— Sukeza (@anykindoflove) February 15, 2015
これはすべての作家に当てはまるけれど、読者が小説を選ぶのであって、小説が読者を選ぶというのはある種の傲慢であると思う。これは映画でも絵画でも音楽でもなんでもそうで、芸術やアートというところに逃げてはならないと思う。伝わらないものは方法論の間違いと認識すべき。
— Sukeza (@anykindoflove) February 15, 2015
つまり、伝わらない、分からないというのは結果が出ないというただそれだけのことでしかない。例えばスポーツではそういう、分かる人には分かるというような論理は通用しない。
— Sukeza (@anykindoflove) February 15, 2015
結局そういったことというのは、芸術であるということはエンターテインメントであるということを放棄するのかという命題を提起しているわけで。つまり、芸術とは何かという。
— Sukeza (@anykindoflove) February 15, 2015
シーラッハに関して言えば、四作読んできて、ある意味素人的な発想で手探りで書いた(ような気がする)処女作の『犯罪』がまぐれ当たりだった感が強い。作を重ねるに連れて、ミニマリズム的な物語の凝縮性が薄れてしまった。
— Sukeza (@anykindoflove) February 15, 2015
とまあ、こうして連続ツイートしたものを並べると文句たらたらなのだけれど、それだけ期待が大きかったということ。